2017/6/19 月曜日

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文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第153号

 

                  『面受(めんじゅ)』       

                                                                       学校長 荒木 孝洋

 

 昭和44年、私は大学を卒業すると同時に横浜の盲学校に着任した。もちろん、新幹線はないから、夜行列車「みずほ」に乗って12時間の長旅である。ゼミのI先生から「東京では、一流のものに触れる機会が多いから、金を惜しまずに出かけるように」と、餞(はなむけ)()の言葉を戴いた。美術館、音楽会、演劇鑑賞、講演会、神田の古本屋、・・・ナケナシの給料を叩((はた))いてせっせと通った。菅原洋一や由紀さおりのリサイタル、日フィルのコンサート、上野美術館、末廣亭の落語、有名人の講演会・・・etc。休日には丹沢山のハイキングや富士登山、国会議事堂周辺での安保反対デモも見に行った。横浜関内駅裏のドヤ街と言われる食堂で日雇い労務者と一緒に安酒を煽ったことも思い出す。肉声を聞き、存在を感じ、その人やその集団と同じ時間を過ごしたこと、キツイ思いをして達成した苦労など、50年経った今でも、心の奥の襞に染みこみ新鮮な形で宿っている。原体験は手間暇かかるが、その人の表情や息遣い、肉声を通して聞こえた言葉には全身で感じるものがあり、時間と場所を共有したからこそ腑に落ちることも多い。

 ところで、人工知能の開発が進み、インターネットがあらゆるものを結びつけ、生活の効率や利便性を高める機能が次々と生まれている。人により使いこなせる度合いは違うが、自分だけ参加しないという選択は難しくなってきた。「コンピュータにできることはコンピュータに任せ、人間は人間にしかできないことに時間をかければ、人間の能力は向上し社会は発展する」と言われるが、果たしてそうだろうか? 利便性の裏側には失っていることも多い気がする。例えば、ラインやメールの普及は連絡を容易にしたことは確かだが、簡単に送・受信できるため、手紙を書いたり対面して会話するなどの習慣や能力は気づかないうちに萎えている。また、ツイッターなどで発信された情報はコンピュータに蓄積され、いつでも誰でも検索できる利便性はあるが、読んでもらうために偽情報を流す人も現れ、発信された情報の信頼性がなくなっている。また、読む方も自分の考え方に合うものや興味あることだけ探す傾向になる。そうしているうちに、頭の動きが検索型になってしまい、わからないことがあれば検索し直ちに答えを見つけようとする思考形態に陥っていく。つまり、連想して考えたり持続して考えることが苦手になり、都合の悪い意見は排除してしまう性癖が身についてしまう。学校教育で最も大切にしている「相手のことを思いやる、相手の意見を聞く」教育の否定でもある。

 気がつくと、後戻りできないネットの広がりだが、立ち止まって検証することはできる。特に、情報機器の低年齢化は、我が国の未来にとって大変困った事態である。ノーベル賞を受賞した日本人の多くは地方出身者であるが、知的好奇心旺盛な青少年期を過ごした方が多いと聞く。幼少期は、純粋で多感であり、「何で?」を連発しながら成長していく年齢である。グローバル化していくこれからの時代、英語力やプレゼンテーション力、コミュニケーション力は益々重要になるだろうが、いずれも手間暇かけて獲得した知識やまどろっこしい思索の産物だ。仏教に「面受」という言葉があるが、原体験はこれに近い。「面受」のもともとの意味は、面と向かって口伝えに仏の教えを伝えることだそうだが、このことは仏教に限ったことではない気がする。世界の情報をインターネットで調べたり、CDで音色のいい音楽を聴くこともできるが、実際にその人に会ったり、生の歌声や主張を聞く体験はとても意味があることだと思う。幼少期の自然体験や友達との戯れもその類だ。授業料は少し高くつくが「経験は最良の母」とも言われる。せめて高校生ぐらいまでは「さらばスマホ」、廻り道を選択して欲しい。読書や体験、人との交わりを通して人間力を高めたいものだ。

2017/5/11 木曜日

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文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第152号

 

                    『急なくして緩ならず』      

                                                                       学校長 荒木 孝洋

 

 スポーツの世界では、優勝すると思われていた選手が惨敗し、逆に、予想だにしなかった選手が優勝することがある。そんな時、敗者は「力んでしまいました」と、勝者は「肩の力を抜くことができ、最高でした」という言葉をよく口にする。理由は何だろう?。一流のスポーツ選手は、あらゆる場面を想定し、繰り返し繰り返し、心身を極限まで痛めつけて練習を重ねる。そうすることで、実際の試合になると肩の力が抜けて練習の成果がでる。しかし、肩の力を抜くことばかり考えて、練習そのものをいい加減にしていたのでは、かえって、試合で肩に力が入りよい結果を残すことができない。

 受験もスポーツに似ている。毎年のことだが、模試ではいい点を取っていた生徒が、本番の試験では緊張して力を発揮できず悔しがる場面を目にする。「緊張する、あがる」ということは、準備不足や力量以上の結果を求めることであり、心の問題も含まれる。このことについて、仏教の経典に次のような示唆に富んだ話がある。釈迦が弟子に対して説法する場面である。真面目に一心に修行し、足の裏から血を出すほど痛々しい努力を続けながら、なおも悟りを得ることができず苦悩している弟子に向かって、「お前は琴を学んだことがあるだろう。糸は張ることが急であっても、また緩くても、よい音は出ない。緩急よろしきを得て、はじめてよい音を出すものである」と釈迦は弟子を諭す。さらに「弦を張るときは、張ることが急(強すぎる)であってはならないからと、最初から緩くすると、残念ながら張り方が中途半端になってよい音は出ない」と。釈迦の教えは心の緩急にも重なる。「緩急よろしき」というのは、「緩(力みがとれる)は作るものではなく、急(ハードな訓練)の後に自然と訪れるものだ」ということだろう。

 因みに、成績が向上しない生徒が陥りやすい習慣のひとつが、好きな教科にだけ時間を費やす学習だ。最初から弦を緩く張っているようなものだから、成果は期待できない。試験では何が出るかわからないから、教科書の隅々まで、小さい脚注にも注意を払い学習する必要がある。疑問があれば先生に質問するもよし、憶えられないなら繰り返し繰り返し復習しなければならない。好きなことだけするのは趣味であって学習ではない。好きなことも嫌いなことも勉強するのが学習。嫌いな教科を避けているようでは、いざという時、不安が増幅し力を発揮できない。

 そして、勉強する上で、心しなければならないことがもう一つある。学習は難問への挑戦ではなく基礎・基本の習熟にあるということだ。福岡の予備校で教鞭を執られたいた(故)磯野幸先生の言葉を思い出す。「基礎の上に基礎があり、基礎の下に基礎がある」と。ここで言う基礎・基本とは易しい問題を解くということではない。原理・原則に従って知識を系統的に整理することを指している。難問・奇問もヒントは基礎・基本、すべてが教科書に記載してある。東大に合格した松野君(23才)は、高校在学中、躓くと教科書に返ることを繰り返していた。まさに、教科書が最良の参考書だということの証だろう。

 ところで、現在のセンター試験は知育偏重であるとして、平成35年度から学力評価テスト(仮称)に変更される。「知識だけでなく考える力を問う」というのが目的である。「今までの学びはパーツを作っていたにすぎない。例えば、中高では、英単語を覚える、方程式を作る、化学反応式を覚えるだけのパーツ作り、その量と質を問うのがセンター試験ということだった。これをもっと発展させて、そのパーツを使って何ができるかを問いたい」との談話だ。国語の記述式問題や英語の外部試験導入が検討されている。全貌が判明するのはもうしばらく先のようだが、「考える力」というのは物作りに似ているから、立派な物を作るには、まずは立派なパーツ(部品)を揃える必要がある。受験もしかり、国語や理科や数学など授業で学ぶ内容がパーツである。しかも、組み立て技術(思考力)まで問うのだから、パーツの精巧さが益々重要になる。

 試練を乗り越えるための必要条件は、スポーツも学習も同じ、「急(ハードな訓練)なくして緩(力みがとれる)ならず」の教えを心しておくこと、そして、その訓練は基礎・基本の徹底にあること。文徳学園は、皆さんのひとり一人の夢実現を応援し続けます。生徒諸君の日々の精進を期待する。

2017/4/14 金曜日

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文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第151号

                                  

            『私は私を創っていくただ一人の責任者です』  

                                                                      学校長 荒木 孝洋

               

 寒さのせいで桜の開花が例年より遅れたが、入学式を待っていたかのように開花した。あいにくの雨模様での入学式だったが、希望に満ち溢れた高校生活のスタートであったものと確信します。新たな環境に戸惑うことがたくさんあると思うが、自分の抱いている夢をもっと大きく膨らませ、将来を見据え、夢を実現するために精進して欲しいと思っています。入学式では、これからの高校生活について3つのことを希望しました。抜粋して紹介します。

 一つ目は“近道をせず、失敗をしてもよいから、何事にも勇気を持って挑戦する”ということです。皆さんは、感性豊かで高い能力を有していますが、夢実現に向けてさらに多くのものを吸収し自らを磨き上げる必要があります。人は失敗や挫折を経験し、それらから学ぶことで成長します。夢を叶えよう、幸せを掴もうと思えば、人は行動し、時には変わらなければならないこともあります。(中略)「私は私を創っていくただ一人の責任者です」という言葉がありますが、個人の適性というのは、初めから固定して備わっているのではなく、行動し、体験する中で、隠れていた才能や特技に気づくものです。大切なことは失敗をしないことではなく、自らの意志で何かをはじめ、きつくとも継続することです。近道しないことです。五年先、十年先に世間から必要とされる人間に成長していただきたいと思います。

 二つ目は“規律ある行動をする”ということです。本校の生徒は、明るく・素直で・礼儀正しいという評価を得ておりますが、それは、自他の存在を認め、互いに助け合うことの大切さを認識しているからであります。規律ある行動は本校の校風であり、皆さんにも受け継いでいただきたいことのひとつです。「時間を守る」、「爽やかで大きな声の挨拶をする」「人をいじめない」誰でも簡単に出来ることです。自分のことを自分で行うのは当然のこととして、周りへの気配りも忘れないでいただきたい。一人一人が規律を守り、品性を備えた行動をすることで、学校全体にも文化の香りがうまれてきます。「自分の行動を律し、自立した人間」を目指して集団生活を送って下さい。

 三つ目は“よき友を作る”ということです。生涯にわたりつきあえる友は、かけがえのない財産です。利害や打算を抜きにした真の友人が得られるのは今日から始まる高校時代です。目先の利害や遊び半分に調子を合わせるだけのつき合いならば、共に足を引っ張るだけであって、低きに流れ、取り返しのつかない悔いを残すことになります。真の友情は、真剣に努力しあう人と人との間にこそ生まれるものです。学校は勉強する場であると同時に、様々な活動を通して友達を作り、互いに切磋琢磨する場でもあります。長い人生をさえさ合う強い絆の友情がうまれることを期待します。

 以上、三つのことを述べましたが、皆さんにはこれからの三年間で大きく変身して欲しいと思っています。文徳高校は人生を生き抜く「体力・気力・そして学力」を身につける道場であると考えて下さい。文徳での三年間を楽しくするのも、つまらなくするのも結局、君達自身の意志力と行動力にかかっているのです。これまで頑張ってきた人は更に頑張ること、中学時代を少し反省している人は今日から頑張れば大丈夫です。いずれにしても、具体的な目標を設定し、「ガンバレ自分」と自らを励ましながら、自分の能力に磨きをかけて欲しいと思います。日本一元気で楽しく、夢と希望に溢れる学園を目指してみんなで頑張りましょう。文徳高校は、「叶えますあなたの夢、鍛えます体・徳・智」を合い言葉にして、皆んの夢実現に向けた精進を全力で支援します。

2017/1/17 火曜日

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文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第150号

 

        『you might think・・・ 』 

 

                                                                     学校長 荒木 孝洋

 

 暦の上では間もなく大寒、一年のうちで一番寒い季節がやってきた。朝の挨拶も「寒いですね」から始まる。20年も昔のことだが、今でも思い出す。今日のように気温がマイナス○度の寒い朝だった。1限目の国語の授業、S先生は黒板に次のような英語を書かれた。『You might think but tody’s some fish』。意味が解らず戸惑っている生徒たちに向かって、S先生は次のような訳をつけられた。『You might(言うまいと)think but(思うが)tody’s(今日の)some fish(寒さかな)』。日本語の読みと英語をない交ぜにしてあるのである。しかも、訳した日本語は5・7・5調の俳句になっているではないか。その後、授業は「俳句を作る」という本題に入った。推測するに、S先生の授業はいつもこんな形で進められていたのだろう。テストの平均点は、いつも他のクラスを大きく引き離していた。しかも、先生の授業に魅せられたファンも多く、休み時間や放課後になると、S先生の周りには質問する生徒が殺到する。また、教材研究に最も力を入れておられ、その単元に関係する書籍はすべて読まれており歩く本屋さんと呼ばれていた。私も、先生の授業を見習って努力はしてみたものの、とうとうその域に達することなく教師生活が終わってしまった。

 ところで、文徳学園では、この3学期の重点目標として「教室の環境整備」を掲げている。掃除の徹底や整理整頓はもちろんのこと、「真剣に学ぶ教室を作ること」ということである。現役の国語教師として52年間、73才まで授業をされた大村はまさんの言葉を借りると、勉強に打ち込める教室とは「安らかに、しかし、締まった雰囲気であること。安らかとは、読み書きに集中できるのびのびとした雰囲気、特別に一生懸命するでもなく、怠けてもいない平静さ」ということだそうだ。大村さんは、授業の準備には命をすり減らすほどのエネルギーを注がれていたが、授業については「ロウソクのように静かに燃えていることが大切だ。固くなく柔らかすぎず、穏やかで平静であって礼儀正しく、甘ったれることなく。それがものを学んでいく姿勢です」と話されている。また、教師の在り方についても、著書「教室をいきいきと」の中で次のようなことを具体的に記されている。幾つか抜粋してみる。(1)子どもができなくても慌てたり驚いたりしないこと。子どもが失敗しても、教師は悠々としていること(2)出来不出来をあまり褒めたり貶したりしないこと。善し悪しを決めるだけの褒め言葉は避ける。優劣ではなく、ひたすら学ぶ世界を作ること(3)子どもが失敗したら、顔色を変えるより対策を講じること。忘れ物を叱っても忘れ物は見つからない(4)レントゲンで体を調べるように子どもの頭の中を見透かすこと(5)柔らかな話し方を練習しておく。聞こえる程度、大きすぎない方がいい。人の前で黒板に字を書く練習もしておくこと。書いたら教室の後ろから眺めてみること(6)授業にはホッとするヒトトキがいる(7)下手な発表をさせない。成功しないと思ったら発表させない。失敗から学べる生徒は少ない。・・・他にもいっぱいありますが、先生の著書を御一読下さい!。

 昨今の教育改革は忙しすぎて戸惑うことが多い。「ああせよ。こうせよ」と指図するのが学者、「知らぬまにできるようにする」のが教師。学者の真似をしても子どもはついてこない。新劇女優の山本安英さんは「自分が何を読み、どう勉強しても、それが舞台で生かせなければ、意味がない」と、役者の難しさについて述べておられる。教師も役者と同じ、子どもが理解できてナンボの世界。教師は、自由に意見をぶつけ合う切磋琢磨の中で力量アップしていく。文徳では若手教師の研修が盛んである。指導案を全員で作り、代表して誰かが研究授業をすることもある。

Buntoku school is developing(文徳は発展途上の学校です)

2016/12/14 水曜日

ボーダーレス

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文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第149号

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             『ボーダーレス』      

                                                                  学校長 荒木 孝洋

 

 暦の上では師走、学校は、後一週間もすれば2学期の終業式を迎える。「もう幾つ寝るとお正月。お正月にはタコあげて、コマを廻して遊びましょう。・・・」と浮き浮きしながら新年を迎えたのはいつ頃までだったろうか。年をとると、節目をさほど意識しないままに新しい年を迎えてしまう。境目がなくなるのは気持ちだけではない。「どこまで顔で、どこから額か?」区別がつかないほど広がる額と薄くなる頭髪、鏡を見るたびに困惑する。仕方ないことだが、年を重ねると、身も心もグローバル化し境目が消えグレーゾーンが広がる。

 ところで、グローバル化の時代、その特徴は、ヒト・モノ・カネ・情報が国境を越えて高速移動することだが、結果として、時には、その勢いに押し流された人々が、格差と貧困の餌食になっていく。この現象が、打倒グローバルを唱える市民の声になって国々の政治を揺るがしている。そんな状況の中、国々は「国境なき時代をどう共に生きるか?」といった難題に直面しているが、欧米の進む方向はどうも違うようで気になる。マスコミ報道によると、アメリカの次期大統領トランプさん発言には、「TPP脱退」「メキシコ国境に壁を作る」「自分の国は自分で守れ」「難民受け入れ制限」「国民皆保険撤廃」など、塀を高くして自国を守るバリアー強化の方向性が見え隠れする。イギリスのEU離脱、欧州に広がる政治の右傾化も同一路線のようだ。日本はどうだろうか?。「強い日本を取り戻す」、安倍首相の言葉が気になる。自国優先が顕在化すると、当然、他国との間に垣根ができ、軋轢や争いが生じる。欧米と同じ道を辿らないことを祈っている。

 先日の熊日新聞に掲載されていた「反グローバル化の落とし穴」という記事が目にとまった。同志社大学大学院教授浜矩子さんの論説である。2008年のアメリカ大統領選に出馬したジョン・マケイン上院議員の言葉『グローバル経済化に抗議するのは、お天気に向かって異を唱えるのと同じことだ。いくら文句を言っても変わらない』という言葉を引用しながら、「我々がいくら嫌がっても、雲の動きや前線の進行を止めることはできない。だが、誰かが悪天候の犠牲となって窮地に陥った時、その救出のために、他の人々が立ち上がることはできる。(中略)やってはいけないことは、災害から逃れて避難してくる人々を閉め出すことだ。自分たちの頭の上だけに、天災から身を守る屋根を作ることだ。自分たちのためだけに堤防を作って、その内側から他者を排除することだ。格差や貧困の原因をグローバル化に求めてはいけない」と警鐘を鳴らされている。合点である。国のリーダーがとるべき道は反グローバルではない。むしろ、敗者や弱者への温もりのある施策だと確信する。

 一方、教育現場も『グローバル』をキーワードとした改革が目白押し。小学校からの英語教育、タブレット活用の促進、大学入試における英検やTOEFLやTOEICの活用・・・。本校の英語教師、H先生はどんな外国人とも流暢な英語で会話ができるスーパーティチャーである。彼の言によれば、「会話は慣れ!、その気になれば、その環境になれば、誰でも英語は喋れる。義務教育で大切なことは、知識や判断力を涵養することだ。小学校に英語はいらない」と。英語はコミュニケーションのツール、喋れるにこしたことはないが万能ではない。排他主義の風潮が見え隠れする欧米だが、「目には目、歯には歯」の交流は必ず行き詰まる。幸い、日本には、古来から日本人が大切にしてきた“惻隠の情”という文化がある。時代は大きく変わったかもしれないが、「弱者を思いやり、相手の立場に立ってものを考える」交流こそ、難題「国境なき時代をどう共に生きるか?」の回答と考える。

2016/11/17 木曜日

積もった雪

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文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第148号

 

             『積もった雪』    

                                                                     学校長 荒木 孝洋

 

 読書の秋、どこの本屋にも、入り口付近にはカラフルな表紙やどぎついタイトルの本がずらりと並んでいる。しかも、時の話題となっている素材も多く、「豊洲移転の全貌」とか「今だから言える東京五輪の裏話」など、マスコミで話題になっていることが一週間もすると冊子として本屋に並ぶ。しかし、地味な短歌や俳句や詩などの冊子は奥の棚にひっそりと置かれていることが多く、なかなかお目にかかれない。しかし、読んでみると、短い文の中に感動する内容がたくさん含まれておりハッとすることがある。詩をひとつ紹介します。山口県生まれの詩人金子みすずさんの作品『積もった雪』という詩です。

  上の雪 寒かろな。 冷たい月がさしていて

  下の雪 重かろな。 何百人ものせていて

  中の雪 さみしかろうな。 空も地面もみえないで 

 私たちは降り積もった雪を見たら、寒いとか、きれいだとか、白いなあと感じます。しかし、金子みすずは、降り積もっている雪を見て上の雪は寒かろうなと感じ、下の雪は重かろうなと感じ、中の雪はさみしかろうなと感じています。彼女は小さいころから、読書好きであり、勉強好きでもあったそうです。その彼女がいちばん嫌いだったのは人の悪口を言ったり、人の悪口を聞くことだったそうです。このように心優しい彼女ですから、『積もった雪』のような詩が出来上がったのだと思います。中の雪や下の雪は私たちの目には見えません。しかし、上の雪とともにそれぞれが重なり合ってそれぞれを支え合っていることを詠っているようです。金子みすずの詩をもうひとつ紹介します。題は『土』です。

  こッつん こッつん  ぶたれる土は  よい畑になって  よい麦生むよ。

  朝から晩まで  ふまれる土は  よい道になって 車を通すよ。

  ぶたれぬ土は  ふまれぬ土は  いらない土か。

  いえいえそれは 名のない草の  お宿をするよ。

 人にだけでなく土への優しいいたわりの心情が伝わってきます。そして、ふたつの詩は、人間社会にも置き換えられるのではないかと思います。私たちは生活するうえでは、多くの人の協力や助けが必要です。その人その人によって、立場も役割も違っていますが、それぞれが力いっぱい生き抜いています。そして、ひとり一人に個性があり、すべてがかけがえのない命です。学校もそうです。もう一度ゆっくりと観察してみて下さい。クラスで生活している級友は背丈も性格も皆違いますが、すべてがなんらかの形で繋がりをもって生活しています。それは、目には見えないけれども、大切な役割や立場があるからです。お互いがかけがえのない存在であるし、大切な存在であることを忘れてはいけません。『積もった雪』はお互いが助け合ったり支え合ったりして、生活していることを私たちに改めて教えてくれるし、『土』は個性と命の大切さを教えてくれます。

 最近は、新聞や雑誌からだけでなく、インターネットを通して便利で役に立つ情報を瞬時に獲得することができますが、時には、単行本や文庫本、詩や俳句に目を通しながらユッタリとした時間を過ごすのも悪くないものです。読書は活字を通しての人と人との出会いですが、自分との対話でもあります。活字で表されたひとつひとつの事象を自らの頭で咀嚼することで世界が広がります。一日一ページでも短い一行でもよい、是非活字に触れる時間を持って欲しいと思います。「縁尋奇妙・多逢勝因」という言葉があります。「良い縁がさらに良い縁を生む、不思議なものだ。いい人(本)に交わっていると良い結果に恵まれる」という意味です。一冊の本との出会いで人生までもが変わるかもしれません。

 

2016/10/26 水曜日

思いの蓋を開けてみる

Filed under: おしらせ — admin @ 7:55:36

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文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第147号

 

         『思いの蓋を開けてみる』                                                                    学校長 荒木 孝洋

 

 自分を変えてみようと思うのは若い時ばかりと思っていたが、そうでもない。歳がいくつになっても、時々新しいことに挑戦したいと思うことがある。心に響いた本に出会った時や、映画で感動した時、凄い人に出会ったときなど、そういう思いを持つ瞬間がある。でも、時間が経つと、持続できることとそうでないこととに別れてくる。その違いはどうも思いの蓋が取れているかどうかにあるようだ。「思」という漢字の語源は辞典によると、頭(田)と心の組み合わせだそうだが、「思」から横線と縦線2本からなる蓋(冂)をとると「志」という字が表れる。「思」と「志」の意味は、似てはいるが向かう方向に違いがある気がする。「思」いは、例えば思い出や思い込みなどのように、自分に向けられるものだが、「志」はある目標の達成を目指すという、外に向けられた強い覚悟が含まれている気がする。「勉強して頑張って、世のため人のために役立つ人になろう」という高い志を持って入学した生徒諸君も、日々の授業や部活動に追われていると、気付かぬうちに志に蓋がかぶさって内向きになってしまう。「忙しい」とか「時間が足りない」「キツイ」「面倒くさい」など自分中心に考えるようになるが、内向きでは前に進めない。では、志に蓋が閉まってしまわないようにするにはどうしたらよいのだろうか。キーワードは「凡事徹底」だと思う。

 6年前のことだが、沖縄の興南高校の野球部が春夏連覇という偉業を成し遂げて話題になった。監督の我喜屋先生は、その頃のことを次のように述懐されている。着任早々、生徒に徹底させたのは練習だけではなかった。就任したころ、寮生活する生徒は寝ない、起きられない、食べられない、整理整頓できない、挨拶ができないという状態だった。人としての根っこの部分がしかりしていれば野球はうまくなるという信念のもと、「時間厳守、整理整頓、挨拶といった基本を徹底して指導した」と話されている。椅子は両手で出し入れして音をたてず、食器の片付けも音を立てないといった、大人ですらできていない人が多い習慣を身につけさせたのです。もちろん、野球の練習も相当ハードだったと思うが、就任して3年後の2010年には見事春夏連覇を達成されました。似たような話を熊本出身の柔道家山下泰裕さんからも聞いたことがある。世界選手権に向けた合宿中の出来事、大先輩の神永昭夫さんがトイレのスリッパを並べている姿を見て、「これが神永選手の強さの秘訣だ」と思った山下選手は、「稽古だけでは神永選手には勝てない。心と感性にも筋トレが必要だ。まずは、立ち振る舞いを正すこと」と決意した。そして、その年行われた世界選手権で見事優勝しました。想像するに、興南高校野球部も山下選手も技量を磨くためのトレーニングに加えて、日常生活の中で心の筋トレを実行し習慣化したことで、技量が昇華し頂点を極めたのではないかと思う。

 ところで、3年生は受験本番、11月になると推薦入試が始まり、1月にはセンター試験を迎える。毎年のことだが、この時期になると成績が急激に伸びてくる生徒がいる。彼や彼女たちに共通することは基礎基本をしっかりと身につけていること、受験に関係ない教科の学習にも手を抜かないことだ。加えて、素直で欠席が少なく掃除も丁寧にするし、整理整頓が上手なことも共通点だ。こんな言葉を聞いたことがある。「心を磨くには、とりあえず、目の前に見える物を磨ききれいにすること。心は、いつも見ているものや、いつも聞こえてくる言葉や喋っている言葉に似てくる。誰にでもできる平凡なことを、誰にもできないくらい徹底して続ける事で、平凡の中から生まれる大きな非凡を知ることができる」と。人が見ていようがそうでなかろうが、続けてやるのが凡事徹底。逃げてばかりいると「思」いの蓋は閉じたまま、そのうち魂(心)が消えて残った頭(田)の中には後悔という雑草が生い茂るだけだ。

2016/10/7 金曜日

砂上の楼閣

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文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第146号

 

             『砂上の楼閣』      

                        学校長 荒木 孝洋

 

 つい先日のこと、近所の公園に行くと、5・6人の小学生が輪になって「ワア、ワア」と騒いでいる。覗き込むと、どの子も指をピコピコと動かしゲームに熱中している。「今は、子どもの遊びはこれか」と言葉を失う。昔なら想像できないような光景が日常化している。セミをとるでもなし、鬼ごっこするでもなし・・・電子機器の広がりに困惑。「小学生にスマホもパソコンもゲームも不用だ、戸外を走り回れ」と叫びたくなる。この現象は、子どもの世界だけではない。科学技術の急速な進歩によって大人の世界も様変わりした。例えば、プレゼンテーションソフトやプロジェクターは講演や説明会で必須のものとなっている。画像を通してプレゼンテーションできるから、説明しやすく時間も短縮できて効率的だ。準備に時間が必要だが、それをコピーして配布できるから資料を作るのと変わらない。しかも、聞く人にとっても見やすく分かりやすい。

 しかし、こんな便利な機器が開発されているのに、学校教育への普及は進んでいない。「授業でなぜ使わないのか?」不思議に思われるかもしれないが、理由は、教師が教育方法の改善や教育機器の利用を苦にしているからではない。一般に講演会などで使われる場合は提示される情報はその段階で完結しているが、学校教育の場合は違う。明日の授業は今日の学習の上に展開する石垣を積むような作業である。全ての生徒にその時々の学習内容を理解させ、知識を確実に定着させなければならない。ビデオを巻き戻すような復習もシバシバ。時には個人指導も必要になる。パソコンで文章を作るようになり「漢字は読めても書く自信がない」という話をよく聞くが、利便さの裏には落とし穴がある。教育機器を使うと説明の能率は上がるが、その分、手作業が減り定着率はむしろ低下する。

 佐賀県武雄市では全国に先駆けて、小中学生全員にipadを配付し、自宅学習を前提とした反転学習を開始した。子どもの8割は「楽しい」と感想を述べているが、小学5年生の算数の学力テストの成績は、実施前と比較してもほとんど差がないそうだ。試行されて間もないから断言はできないが、動画は一時的な記憶には残っても、知識の蓄積には繋がりにくいようだ。自分で想像を働かせてノートを作り、手に豆ができるほど書きまくり学習をする、この繰り返しが、むしろ、大切な気がする。授業でグラフィカルな動画を見せるのは効果的だが、知識の定着との両立はそう簡単ではない。私が教師になった50年前にも同じ課題にぶつかっている。当時、オーバーヘッドプロジェクターが登場し、黒板なしでも授業ができる画期的な教具としてもてはやされたが、しばらくすると消滅した。なぜ?、結論は実に平凡だった。「知識は見ることや聞くことよりも、読み・書きによって定着する」ということだった。

 子どもたちは新しい知識や情報を入手し、それを咀嚼し自分のものにするまでには時間がかかる。繰り返し繰り返しの試行錯誤の中で知識は定着していく。「反復練習や反復書写といった単純な作業は考える力を育まない」といった主張の教育論もあるが、江戸時代の寺子屋では、読み・書き・計算を繰り返し、明治維新を担った若者たちは『四書・五経』を暗誦している。意味不明の文章でも10回も読めば憶えもするし、時間をかけてジックリ学ぶことで疑問や文中に隠された奥深い意味も理解できるようになる。悪戦苦闘のアクティブな一人芝居を通した学びから自分の意見や感想も湧いてくるに違いない。他人の意見はその後で聞けばよい。最初から人の意見を聞くだけ、あるいは、無定見の思いつきを喋るだけの『アクティブ・ラーニング』はメダカの学校だ。電子機器や欧米の教育方法論を推奨する議論はスマートで華やかだが、それに偏るのは危険である。『読み・書く』の教育活動は『見る・聞く』に比べるとまどろっこしい学びだが、手書きや反復練習などの泥臭い教育実践を軽視していると、学校教育は砂上の楼閣になってしまう。

 

2016/9/26 月曜日

Filed under: おしらせ — admin @ 11:18:40

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文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第145号

          『ロボットは万能か?』      

                        学校長 荒木 孝洋

 台風16号接近、子どもの安全が最優先と始業を2時間遅らせたが、進路がそれてホッとした。しかし、台風が通過した鹿児島や宮崎方面では甚大な被害が出ているようで、台風銀座と言われている九州人としては人ごととして済ませられない。最近は台風の進路予測もGPSにより精度が高くなり降雨量や風速まで刻々と伝えられ、天気予報も様変わりした。特に災害予報については、熊本地震以降心身ともに過度に反応してしまう。

 ところで、GPSだけでなく文明の利器の広がりは想像を絶する速さで進展している。スマホ、デジカメ、エアコン、ロボット掃除機、ゲームポケモンなど、世界は人工知能の時代に突入し、与えられた命令のもとに制御されている人工知能により私たちの生活は便利で快適になる一方だ。ポイントはAI(人工知能)である。コンピュータの計算速度が飛躍的に向上したことにより、人間に近い知的な処理がスムーズに行われるようになった。その結果、一定の形式を持つ業務(仕事)はAIで代行できるようになり就業構造がガラリと変わってしまいそうだ。見渡すと、50年前はなかったものが家の中にもゴロゴロ。テレビ、携帯、炊飯器、ガス。今では、エアコンなしの車を探すのも難しい。福島では、原子力発電所の事故処理の一部をロボットが担い、熊本地震では、壁面が崩落した57号線の道路復旧が、自動運転のダンプやショベルカーで作業が進められるなど、人間にとって大きなリスクのある活動に対しても極めて便利な文明の利器となっている。また、GPSとセンサーやカメラ映像解析技術を搭載した自動車は、運転時に人間が行っている知的判断をプログラム化し、人工知能による自動運転も実用化されている。また、佐世保のホテル「変なホテル」(名前も変だが)ではロボットが受付や部屋の案内までするそうだ。

 しかし、人工知能を搭載したロボットは生活に利便さをもたらすだけではない。使い方を誤ると人を殺傷し物を破壊する兵器にもなってしまう恐れがある。すでに、米国は、アフガニスタンなどで「対テロ戦争」に遠隔操作の無人機(ドローン)を投入している。また、イスラエル軍は自動運転の軍用車を実戦配備し始めたとの報道もあるし、同様の兵器を米国、中国、ロシアなど少なくとも6カ国に開発能力があると言われている。本来、人は人を殺すことへの心理的抵抗があるが、何の痛みもなく敵を殺傷できるようになれば、戦闘行為に歯止めがきかなくなる。人を殺傷しても、現場からは遠い操縦室では被害者の苦しみも恐怖も感じないだろうし、攻撃の決断まで機械に委ねることになれば、戦争を現実感のないゲームにしてしまう恐れがある。人工知能を搭載した災害救助ロボットも自動運転の自動車も戦車もドローンも仕組みは同じである。使用目的を誤ればとんでもない事態に突入する。兵器も救援道具も開発には境界線がないだけに人類は新たな難題に向かい合うことになる。

 すでに報道されていることだが、我が国はこれからさらに少子高齢化が進み、労働人口は減少し、税収も減っていく。ロボットや人工知能の活用は、このこととも無縁ではない。新しいテクノロジーを上手に活用し、人間がより人間らしい仕事に従事するとなると、子どもたちはテクノロジーを的確に用いる力を身につけることが求められる。新しい指導要領には、新たに「プログラミング教育」が加わり学校教育の範囲が広がる。コンピュータがどんな仕組みで動き、何ができ、何が苦手なのかを教えるだけでなく、「コンピュータをどう使っていくことが、より人間らしく生きていくことに繋がるのか」を教えることが肝要である。小さい頃、「道具に頼るな、手足を動かせ」と親父から言われたことを思い出す。「人間の五感を大切にしなさい」と理解している。最近は、病院に行くと触診ではなくて検査データをもとに診断されるケースが多くなった。五感よりデータ重視となれば、22世紀はロボットが人間の生殺与奪の権を握ってしまうSF社会になってしまうかもしれない。


2016/8/31 水曜日

Filed under: おしらせ — admin @ 18:30:50

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文徳中学・高等学校のことをもっと知りたい と思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第144号

 

          『嫌老より賢老』    学校長 荒木 孝洋

 

 暦の上では間もなく白露、秋の気配が深まり露の量が増える季節、ここ数日、気温も下がり朝夕いくらか凌ぎやすくなった。熱波で火照っていた身も心もホッと一息。当たり前のことだが、人は皆、春夏秋冬、季節が一回りすると齢をひとつ加えていく。私も70回目の秋を迎えることになった。古来より70回目の誕生日は『古希』と呼ばれ、めでたいことだと祝いの席が設けられる。「よくぞここまで生きてこれた」と感慨深くもあるが、「あと何年生きられるのかな?」と不安もよぎる。知人から「古希まで生きるのは、昔は珍しいことだったが、今は古希で亡くなる方が珍しい。いつまでも元気でいて下さい」と励ましの言葉を頂いた。

 とは言え、「高齢者の増加」は国としては大きな課題であり、渦中の年齢としては、キツイと思えるような施策であっても受け入れていかなければと覚悟しているが、先日、ネットでショッキングな漫画を見つけた。題名は「ハローワーカー」、作者は首相官邸にドローン飛ばした人物だそうだ。その内容は少子高齢化に悩む未来の日本。若者の失業対策として「老人駆除法」が施行され、増えすぎた老人を処分する「老人駆除部隊」が結成され若者たちが老人狩りをするのです。ひとりの老人を処分するごとに一万円。高齢者を間引きすることにより、年金、医療費を浮かせて若者たちの出産、育児、教育費に充てるストーリーだ。老人たちも「スーパー老人部隊」を結成し若者たちに対抗します。マンガとはいえ、ブラックユーモアと笑っていられないリアリティさです。現実に、高齢化社会の日本人の4人に1人は65歳以上のお年寄り、これが2060年には人口の40%が年寄となる社会です。作家の五木寛之さんは、著書『嫌老社会を超えて』の中で、このマンガについて「今の社会をどこか反映しているのではないか。人より先に有毒ガスを察知する炭坑のカナリヤみたいに。嫌老社会の入り口に今我々は立っているのではないか」と述べておられる。老人ばかり増え、若者たちがいくら働いてもお年寄りのための年金にばかり使われ、結婚もできない社会では、若者は嫌老になるはずです。株価が上がり円安になっても非正規の若者の生活は向上しないし、GDP600兆円とか希望出生率1.8、介護離職ゼロなんて実現不可能な数値をいくら並べても前には進めない。このまま放っておくと老若の軋轢は深まるばかり。対策を先送りし、気付いたらマンガ「ハローワーカー」の世界では悲しすぎる。

 どうも、マンガ「老人駆除法」の根底には『嫌老』があるようだ。そこで提案だが、「老人よ『賢老』に変身しよう!」。では、どうしたら『賢老』に変身できるのだろうか。作家の童門冬二さんは、『賢老』の秘訣について、『三つのK』が必要だと提案されている。「経済」=(金)、「健康」=(身体)、「希望」=(心)の三つです。さらに、高齢者にとっての人生行路は「起承転結」というより「起承転転」だと。人生の「結」は、今までのような悠々自適な老後と考えるのではなく、新しい生き方への区切りであり、最後まで転がり続ける「転」と認識した方がよいと。89歳の童門さんは、今も元気に執筆や講演活動をされている。また、82歳の作家、五木寛之さんは、著書『下山の思想』の中で、「人生行路は山登りに似ている。青雲の志高く頂上(坂の上の雲)を目指すのが若者であり、老人は辿ってきた道をユックリと振り返りながら下山する。それが賢老の歩みだ」と述べておられる。下山は『頂点を極める』という目標から解放され麓の道を踏みしめながら歩けるから、歩数も違うし見える景色も違う。古希を迎えた今、人生の「来し方・行く末」に思いを馳せながら『転・転・転・・・』と、命が続く限り、若者応援部隊の『賢老』を目指してユックリと歩みを進めていきたい。

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