2017/11/14 火曜日

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文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第158号

 

         『読書はしなくてはいけないものか』  

                                                                   学校長 荒木 孝洋

 

最近、一日の読書時間が『0分』の大学生が5割に上る、という調査結果が報告された。さらに、全国学校図書館協議会による読書調査によると、本屋に行くと答えた割合が、12年前と比べて小中高のいずれも11〜8%減少しているそうだ。スマホの普及や街の書店が減ったこともその要因かもしれないが、若者の本離れが進んでいるようで心配になる。上記のタイトル「読書はしなくてはいけないものなのか?」というのは21才になる大学生の新聞投書(朝日新聞2017年3月8日掲載)である。大学生曰く「私は、高校の時まで読書は全くしなかった。それで困ったことはない。読書が生きる上での糧になると感じたことはない。読書はスポーツと同じように趣味の範囲であって、自分にとってはアルバイトや大学の勉強の方が必要。(中略)読書をしなければいけない確固たる理由があるならば教えて頂きたい」と。この投書は反響が大きかったのか、その後、その記事に対するさまざまな立場、年齢の読者からの意見や感想が掲載されていた。

 伊藤忠商事の社長であり中国大使も歴任された丹羽宇一郎は、件の大学生の意見に対して、著書『死ぬほど読書』の中でこう答えておられる。一部抜粋して紹介する。“もし、その大学生が直接、私にそんなことを聞きに来たら、こう答えると思います。「読む、読まないは君の自由だから、本なんて読まなくていいよ」。そもそも、誰がその大学生に本を読めと強制しているのでしょう。読まなくても本人の勝手です。読書をしない若者が増えたと嘆く大人の声など無視し、意義を感じるアルバイトや勉強に今日も明日も精を出せばいいのです。しかし、読書の楽しみを知っている人にはわかります。本を読むことがどれだけ多くのものを与えてくれるかを。考える力、想像する力、感じる力、無尽蔵の知識や知恵・・・、読書はその人の知的好奇心、そして「生きていく力」を培ってくれます。(中略)読書の必要性をどう考えようと自由です。しかし、必要ないと思う人は気づかないところで、とても大きなものを失っているかもしれません。政治にしても経済にしても文化にしても、そこに携わっている人たちの言葉が軽くなっている。じっくりと洞察し、深く考えたところから発した言葉に触れる機会が、以前よりぐんと減っている感じがします。このことは現代人の読書時間が極端に減っていることと、決して無関係ではないと思います。(中略)『何でもあり』の世界は一見自由なようですが、自分の軸がなければ、実はとても不自由です。それは前へ進むための羅針盤や地図がないのと同じです。 では、自分の軸を持つにはどうすればいいのか?。それには本当の『知』を鍛えることしかありません。読書はそんな力を、この上もなくもたらしてくれるはずです。読書はあなたをまがいものでない、真に自由な世界へと導いてくれるものなのです”と。

 人の一日は24時間。従って、新しいモノが登場したり新しいことを始めると、従来使っていた時間から何かを削らなくてはならない。特に、ケータイやネットの登場で使う時間も情報発信のスタイルも一新し、新たな時間配分のステージへ向かうことになった。朝から深夜まで絶えず誰かと会話をしたり、携帯やメールチェックと返信で落ち着かない若者が増えたと言うが、24時間から何を削っているのだろうか?。人や書物と対面しながら『心の習慣』を身につける大切な時間が削除されているような気がしてならない。若くて無限の可能性を秘めている若者だが、学び身につけなければならないことがまだまだ沢山ある。その手立てのひとつが読書だ。読書は趣味のひとつではない。自分が経験できないようなことを、読書を通して体験する。それによっていろいろな人の立場に立ってものごとを見たり、考えたりできる。そうすることによって自分の視野や思考の範囲がぐんと広がり、想像力が鍛えらる。想像力はとても大事だ。本を読んでさまざまな生き方や思考を体験できれば、想像力はどこまでも伸び、世界がそれだけ広がる。しかも、人には寿命があり、その中でできることは限られている。経験できないこともたくさんある。それを埋め合わせたり、人生を豊かにしてくれるのも読書の妙味だ。 

2017/10/10 火曜日

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文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第157号

 

                      『縁を生かす』               

                                                                      学校長 荒木 孝洋

 

 稲穂が色づき実りの秋を実感する季節になった。子供のころを思い出す。今はほとんど見かけることがなくなったが、どこの田んぼにも人の姿を模造した案山子が立てられていた。布ぎれに顔を描きそれを棒に巻き付けただけの人形、子どもたちはそのユーモラスな形相に笑いこけた。案山子は稲刈りが終わると役割終了、しかし、その後も田圃の隅っこにポツンと立てられたまま。雪が降れば白装束になり、冬になると北風に震えるようにして忽然と立ったままである。その姿が不憫に見えたことを想い出す。可哀想だと思うのはその姿に自分の姿や境遇が重なるからかもしれない。

 ところで、本棚を整理していたら、京セラの稲森和夫会長が書かれた「ちょっと元気の出る話」という本を見つけた。ひとりの少年の成長を記した「縁を生かす」というタイトル、教師の資質が問われているようでドキッとした。原文のまま紹介する。

 “その先生が5年生の担任となった時、一人、服装が不潔でだらしなく、どうしても好きになれない少年がいた。中間記録には先生は少年の悪いところばかり記入するようになっていた。ある時、少年の1年生からの記録が目にとまった。「朗らかで、友達が好きで、人にも親切。勉強もよくでき、将来が楽しみ」とある。間違いだ。他の子の記録に違いない。先生はそう思った。2年生になると、「母親が病気で世話をしなければならず、時々遅刻する」と書かれていた。3年生では「母親の病気が悪くなり、疲れていて、教室で居眠りする」後半の記録には「母親が死亡。希望を失い、悲しんでいる」とあり、4年生になると「父は生きる意欲を失い、アルコール依存症となり、子供に暴力をふるう」先生は胸に激しい痛みが走った。ダメだと決めつけていた子が突然、深い悲しみを生き抜いている生身の人間として自分の前に立ち現れたのだ。先生にとって目を開かれた瞬間であった。放課後、先生は少年に声をかけた。「先生は夕方まで教室で仕事をするから、あなたも勉強していかない?分からないところは教えてあげるから」と、少年は初めて笑顔を見せた。それから毎日、少年は教室の自分の机で予習復習を熱心に続けた。授業で少年が初めて手を上げた時、先生は大きな歓びがわき起こった。少年は自信を持ち始めていた。クリスマスの午後だった。少年が小さな包みを先生の胸に押しつけてきた。あとで開けてみると、香水の瓶だった。亡くなったお母さんが使っていたものに違いない。先生はその一滴をつけ、夕暮に少年の家を訪れた。雑然とした部屋で独り本を読んでいた少年は、気がつくと飛んできて、先生の胸に顔を埋めて叫んだ。「ああ、お母さんの匂い!きょうは素敵なクリスマスだ」6年生では少年の担任ではなくなった。卒業の時、先生に少年から一枚のカードが届いた。「先生は僕のお母さんのようです。そして、今まで出会った中で一番素晴らしい先生でした」それから6年、またカードが届いた。「明日は高校の卒業式です。僕は5年生で先生に担任してもらって、とても幸せでした。おかげで奨学金をもらって医学部に進学することができます」10年を経て、またカードがきた。そこには先生と出会えたことへの感謝と父親に叩かれた経験があるから患者の痛みが分かる医者になると記され、こう締めくくられていた。「僕はよく5年生の時の先生を思い出します。あのままだめになってしまう僕を救ってくださった先生を、神様のように感じます。大人になり、医者になった僕にとって最高の先生は、5年生のとき担任をしてくださった先生です」そして一年、届いたカードは結婚式の招待状だった。「母の席に座ってください」と一行、書き添えられていた。”(おわり)

 たった一年間の担任の先生との縁。その縁に少年は無限の光を見いだし、それをよりどころとして、それからの人生を生きた。ここに少年の素晴らしさがある。人は誰でも縁の中に生きている。無数の縁に育まれ、人はその人生を開花させていく。大事なのはその縁をどう生かすかである。と同時に、教師は子供の心の動きを感じるアンテナの高さが問われる。立ってるだけの教師は案山子と同じ。

(教師生活50年の述懐)

2017/9/21 木曜日

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文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第156号

 

                    『吹奏楽部創部50周年』                                                                            学校長 荒木 孝洋

 

 暑さ寒さも彼岸までと言われるが、今日は(9月20日)彼岸の入り。熱波の夏よオサラバ』、気温も下がり朝夕随分と過ごしやすくなりました。秋本番の爽やかなこの季節、本校吹奏楽部は創部50周年を記念して10月1日(日)に『50周年記念オータムコンサート2017』を開催します。場所は県立劇場、13:00開場、13:30開演。もちろん、入場料は無料です。多数の方のご来場をお待ちしています。

 本校吹奏楽部は昭和44年に創部し、一時期、部員不足から休部の危機もありましたが、各方面の方々による技術指導やご支援を仰ぎながら、文化祭、野球の応援、施設慰問やコンクールなど学校内外の行事においても精力的に活動し今日の日を迎えることができました。現在部員が51名、音楽をこよなく愛する子どもたちばかりです。県立劇場での秋の定期演奏会も8回目を迎えましたが、夏の暑い日、冬の寒い日、そしてまた勉学との両立を果たしながら練習を重ねてきました。授業の関係で全員が揃っての練習時間は多くはとれませんが、いったん演奏となると見事なハーモニーが醸し出され深い感動に浸らせてくれます。観客の皆さまの励ましの声に部員たちは元気を頂き、今年も素晴らしい音色の演奏を聴かせてくれるものと思います。

 ところで、作家の五木寛之さんは音楽の効用について、「歌は心の食べ物、辛いとき、悲しいとき、私たちは歌うことで自分を励まし慰める。でも、歌に励まされるのは、ほんの一瞬。しかし、その一瞬がとても大事である。それが歌や音楽の力である」と述べておられます。音楽を含めて絵や書を書いたり木や石等を造形する芸術は、心身の健康に優れた効果があると言われています。免疫力がアップし消化が良くなる。また、脳の働きが活性化する。気分転換できてストレスが解消する等々・・・。とりわけ、脳のリラックスには効果が大きいようです。脳は重さはわずか1,300gですが、とてつもない仕事をこなしています。血液を循環する、呼吸する、食べ物を消化する・・・これらを行うのはそれぞれを受け持つ器官ですが、コントロールするのは脳。見る、聞く、触る、味わう、嗅ぐ・・・これらをつかさどるのも脳。記憶する、考える、判断する、感動する・・・これらも脳の働き。私たち人間の全ての活動をつかさどり24時間働きっぱなしです。その精妙な仕組みと働きには、人間が作ったどのようなコンピューターでも及ばないといわれます。今年の演奏会は、リラックスタイムof脳』、ガンバリ屋の脳をゆっくりと休ませる時間となることを期待しています。

 さて、今回の演奏会には、創部当時の顧問である平川先生もお招きして、初代の演奏曲「行進曲」や「士官候補生」を指揮していただく予定です。さらに、本校卒業生でサックスのプロ演奏家として活躍されている村田貴洋先輩や、バトントワリングで大活躍中のフレンズバトンスタジオのメンバーの方々、崇城大学吹奏楽団、文徳高校OB・OGの皆さんにも賛助出演していただくことができました。限られた時間ですが、子供から大人まで幅広い世代の皆さんが楽しめる曲目を準備しています。舞台と客席が一体となって盛り上がることを心より期待しております。 

 最後になりますが、創部50周年の記念演奏会を開催できますのも、ひとえに、日頃からご指導・ご支援いただいている多くの皆様のおかげです。関係するすべての皆様への感謝の思いをお伝えしてご案内のご挨拶といたします。

2017/9/1 金曜日

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文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第155号

 

                         『時空を超えて』      

                                                                       学校長 荒木 孝洋

 

 中学時代の同級生から同級会の案内状が届いた。葉書の端に、「年々歳歳花相似たり 歳歳年々人同じからずの一句に新たな意味を感じる年齢になりました」と添え書きしてあった。唐の詩人・劉希夷の「代悲白頭翁」の有名な一節である。中学2年の時の国語担当のK先生に教えてもらった詩だが、彼もそれを記憶していたようだ。当時を思い出して感慨を新たにした。白髪交じりの柔和なK先生は、「文章はリズムだ、君たちの年齢ならすぐに暗記できる」と言って、古今東西の名詩をガリ版で印刷して配られ暗誦させられた。島崎藤村の「千曲川旅情の歌」もそのひとつ。「小蹐覆觚転襪里曚箸蝓 ̄税鬚遊子悲しむ 緑なすハコベは萌えず 若草も藉くによしなし しろがねの衾の岡邊 日に溶けて淡雪流る」今でも(そら)んじているが、語尾を少し長く、ゆっくりと音読されていたことを思い出す。若山牧水の「白鳥は悲しからずや空の青海のあおにも染まずただよう」の詩を詠むときは、目を閉じて遠くの空を仰ぐようにして朗読されていた姿が懐かしい。先生は「文章には生命力がある。年を経、異なる境遇にあって思い出すと、その時に応じて違う意味を帯びて現れ、生きる力を与えてくれる」これが口癖だった。先生の言葉通り、人生のさまざまな局面でそれらの文章を思い出して新たな感銘を受ける。国語はあまり得意ではなかったが、その教えに感謝している。

 話題はそれるが、私が数学教師としてスタートしたのは今から50年前の1968年、数学教育では遠山啓氏の「水道方式」という教えがブームの時代であった。友兼清治氏の著書「遠山啓ー行動する数楽者の思想と仕事」という本がある。その著書に、当時の教育についての遠山氏の警鐘と考察がしたためられている。一部抜粋して紹介する。「日本の子どもたちは、うぬぼれる少数の子供と自分自身に見切りをつけて自信を失った多数の子供に二分されるであろう。そうなると、政治はすこぶるやりやすくなるだろう。なぜなら、自分自身に見切りをつけたあきらめのよい国民ほど統治するのにたやすい国民はないからだ。(中略)日本人は目をつぶって断崖から飛び降りるような危険な衝動がある。これは危機がくると頭をもたげる。これに対抗するためには科学的思考が養われる必要がある。宇宙の中で人間ほど複雑で底知れぬものはない。人間というものの底知れなさ、測りがたさに対する畏れの感情を失ったとき、その瞬間から教育は退廃と堕落への道を歩みはじめる」。今の時代の教育への警鐘と言っても違和感がない。 

 昨今、アクティブラーニングとか小学校からの英語導入などの授業改革が提言されているが、授業はさほど軽いものではない。生徒の理解度や満足度は教師の教材理解の深浅によって異なるし、刻々と変化する環境に、臨機応変に対応する技術も必要だ。理論やマニュアルだけですぐさま実践できるわけではない。かって、若い教師は先輩から「十を知って一を教えよ」と戒められたものだ。先輩の優れた技術を盗み、実践し、結果を分析し、修正し、また実践する、その繰り返しによって教師の指導力が身についていく。まして、人を支え育てる営みとしての教育は、人間の本質という水源に遡ることなしには枯渇するのに、今の教育改革の議論には、「そもそも人間とは何か」という問いが抜け落ちている。K先生は時空を超えて生きる力を育むための教育を実践され、遠山先生は人間の根底に横たわる脆さや弱さを克服するために科学的思考の訓練の大切さを伝えたかったのだろうと推測する。教育改革の議論が時間数の増減に矮小化されたり、多様な社会のニーズや子供が抱える課題の解決を学校にだけ求めるようでは日本の教育は崩壊する。

2017/7/11 火曜日

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文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第154号

 

                         『たまねぎ』       

                                                                       学校長 荒木 孝洋

 

 私はタマネギが大好きだ。焼いても炒めても生でも天ぷらにしてもうまい。カレーの具材にも欠かせないタマネギ、ほんのりとした甘みと食感が何とも言えない。皮を一枚一枚剥がすと芯しか残らないが、その芯から出た種を畑に植えると、また、一枚一枚と皮を増やしながら立派なタマネギに成長していく。私は育てたことはないが、土壌管理と気温や肥料によって成長に大きな差が出るそうだ。人間の成長もタマネギに似ている。子供は螺旋階段を上るように、学習によって知識と知恵を膨らましながら大人に成長していく。玉葱の栽培は石灰を撒く土壌作りから始まるが、学習もしかり。基礎・基本の習熟が土作りにあたる。土作り(基礎基本)ができていないと、その後どんなに肥料(教育)をやってもうまく育たない。その原点は江戸時代の寺子屋教育にある。「読み・書き・そろばん」の繰り返し、タマネギの苗作りにあたる。初等教育では今も昔も変わらない。

 ところが、昨今の教育改革提言を見ると「知識を伝達する教育より、自ら学び、自ら考える力を育成することがこれからの教育では重要である」と、知育が軽く扱われているように感じる。「情報化の進展は、知識を陳腐化させるスピードを速めるから、古い知識はすぐに役立たなくなる。それゆえ、情報収集の方法を教える方が価値がある。情報収集の方法さえ身につけば、問題解決能力や創造性を発揮できるようになる。また、生涯学習の時代になるから、学校時代は学び方さえ身につけておけばよい」といった付則も提言されている。いずれの指摘も、タマネギ作った(授業をした)ことがない人が、壇上で作り方(授業の仕方)を講釈しているように聞こえてしまう。

 たしかに、マスコミやネットで流れる情報の陳腐化の速度は速まっている。しかし、学校で教える知識は、もともとそうした「流行」の知識やニュースではない。むしろ、新しい知識を理解する上での基礎となる知識である。高校レベルの理科の知識なしに、最先端の科学技術の理解は無理であるし、現代社会の問題を考えるときも高校レベルの社会の知識が必要になる。数学は論理的な思考を訓練するのに最も有効な教科である。いずれの学習も、新しい知識は常にそれ以前の知識と繋がっていることを忘れてはならない。また、コンピュータによる情報検索の方法にどんなに詳しくなっても、そこで得た知識や情報を理解できなければ、集めた情報は無意味になる。さらに、情報の量が多ければ多くなるほど選別する力(知識)が益々重要になる。一方、生涯学習の時代だからといっても、学校時代の学びが無意味だと言うことにはならない。むしろ、基礎知識があるとないとではスタートラインが随分と違ってくる。たとえ、忘れたにしても一度理解した経験があるかないかによって、学び直しの難しさが違ってくる。

 振り返ると、今回提言されている「自ら学び、自ら考える力を育成すること」は、昔から学校教育の根幹に据えられていた目標であり、前段には「知識の習得を通して、・・・」と書かれていた。教師は研究会等で指導法を磨きながら教科指導に全力を注いでいた。ところが、昨今の矢継ぎ早な改革は真逆である。小学生から英語教育が始まり、IT教育、ディベート、◯◯教育、記述式の大学新テスト、アクティブラーニング・・・。やることが広がりすぎて、じっくり考えさせる時間がドンドン減っている。人間の意欲やリズムを無視したゆとりのない教育論が跋扈(ばっこ)するようでは「たらいの水と一緒に赤子を流してしまう」ことになってしまう。つまり、「あまりにも熱心に改革や改変や行動を急ぎると、不必要な要素を取り除くうちに必要な要素までとり除いてしまうことになる」ということだ。タマネギの温度管理と同じように、人間の学びには試行錯誤の熟成(ムダな)時間がいる。拙速と迅速は似て非なること、為政者や教育者がいつも心しておかねばならぬことです。

2017/6/19 月曜日

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文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第153号

 

                  『面受(めんじゅ)』       

                                                                       学校長 荒木 孝洋

 

 昭和44年、私は大学を卒業すると同時に横浜の盲学校に着任した。もちろん、新幹線はないから、夜行列車「みずほ」に乗って12時間の長旅である。ゼミのI先生から「東京では、一流のものに触れる機会が多いから、金を惜しまずに出かけるように」と、餞(はなむけ)()の言葉を戴いた。美術館、音楽会、演劇鑑賞、講演会、神田の古本屋、・・・ナケナシの給料を叩((はた))いてせっせと通った。菅原洋一や由紀さおりのリサイタル、日フィルのコンサート、上野美術館、末廣亭の落語、有名人の講演会・・・etc。休日には丹沢山のハイキングや富士登山、国会議事堂周辺での安保反対デモも見に行った。横浜関内駅裏のドヤ街と言われる食堂で日雇い労務者と一緒に安酒を煽ったことも思い出す。肉声を聞き、存在を感じ、その人やその集団と同じ時間を過ごしたこと、キツイ思いをして達成した苦労など、50年経った今でも、心の奥の襞に染みこみ新鮮な形で宿っている。原体験は手間暇かかるが、その人の表情や息遣い、肉声を通して聞こえた言葉には全身で感じるものがあり、時間と場所を共有したからこそ腑に落ちることも多い。

 ところで、人工知能の開発が進み、インターネットがあらゆるものを結びつけ、生活の効率や利便性を高める機能が次々と生まれている。人により使いこなせる度合いは違うが、自分だけ参加しないという選択は難しくなってきた。「コンピュータにできることはコンピュータに任せ、人間は人間にしかできないことに時間をかければ、人間の能力は向上し社会は発展する」と言われるが、果たしてそうだろうか? 利便性の裏側には失っていることも多い気がする。例えば、ラインやメールの普及は連絡を容易にしたことは確かだが、簡単に送・受信できるため、手紙を書いたり対面して会話するなどの習慣や能力は気づかないうちに萎えている。また、ツイッターなどで発信された情報はコンピュータに蓄積され、いつでも誰でも検索できる利便性はあるが、読んでもらうために偽情報を流す人も現れ、発信された情報の信頼性がなくなっている。また、読む方も自分の考え方に合うものや興味あることだけ探す傾向になる。そうしているうちに、頭の動きが検索型になってしまい、わからないことがあれば検索し直ちに答えを見つけようとする思考形態に陥っていく。つまり、連想して考えたり持続して考えることが苦手になり、都合の悪い意見は排除してしまう性癖が身についてしまう。学校教育で最も大切にしている「相手のことを思いやる、相手の意見を聞く」教育の否定でもある。

 気がつくと、後戻りできないネットの広がりだが、立ち止まって検証することはできる。特に、情報機器の低年齢化は、我が国の未来にとって大変困った事態である。ノーベル賞を受賞した日本人の多くは地方出身者であるが、知的好奇心旺盛な青少年期を過ごした方が多いと聞く。幼少期は、純粋で多感であり、「何で?」を連発しながら成長していく年齢である。グローバル化していくこれからの時代、英語力やプレゼンテーション力、コミュニケーション力は益々重要になるだろうが、いずれも手間暇かけて獲得した知識やまどろっこしい思索の産物だ。仏教に「面受」という言葉があるが、原体験はこれに近い。「面受」のもともとの意味は、面と向かって口伝えに仏の教えを伝えることだそうだが、このことは仏教に限ったことではない気がする。世界の情報をインターネットで調べたり、CDで音色のいい音楽を聴くこともできるが、実際にその人に会ったり、生の歌声や主張を聞く体験はとても意味があることだと思う。幼少期の自然体験や友達との戯れもその類だ。授業料は少し高くつくが「経験は最良の母」とも言われる。せめて高校生ぐらいまでは「さらばスマホ」、廻り道を選択して欲しい。読書や体験、人との交わりを通して人間力を高めたいものだ。

2017/5/11 木曜日

Filed under: おしらせ — admin @ 9:33:23

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文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第152号

 

                    『急なくして緩ならず』      

                                                                       学校長 荒木 孝洋

 

 スポーツの世界では、優勝すると思われていた選手が惨敗し、逆に、予想だにしなかった選手が優勝することがある。そんな時、敗者は「力んでしまいました」と、勝者は「肩の力を抜くことができ、最高でした」という言葉をよく口にする。理由は何だろう?。一流のスポーツ選手は、あらゆる場面を想定し、繰り返し繰り返し、心身を極限まで痛めつけて練習を重ねる。そうすることで、実際の試合になると肩の力が抜けて練習の成果がでる。しかし、肩の力を抜くことばかり考えて、練習そのものをいい加減にしていたのでは、かえって、試合で肩に力が入りよい結果を残すことができない。

 受験もスポーツに似ている。毎年のことだが、模試ではいい点を取っていた生徒が、本番の試験では緊張して力を発揮できず悔しがる場面を目にする。「緊張する、あがる」ということは、準備不足や力量以上の結果を求めることであり、心の問題も含まれる。このことについて、仏教の経典に次のような示唆に富んだ話がある。釈迦が弟子に対して説法する場面である。真面目に一心に修行し、足の裏から血を出すほど痛々しい努力を続けながら、なおも悟りを得ることができず苦悩している弟子に向かって、「お前は琴を学んだことがあるだろう。糸は張ることが急であっても、また緩くても、よい音は出ない。緩急よろしきを得て、はじめてよい音を出すものである」と釈迦は弟子を諭す。さらに「弦を張るときは、張ることが急(強すぎる)であってはならないからと、最初から緩くすると、残念ながら張り方が中途半端になってよい音は出ない」と。釈迦の教えは心の緩急にも重なる。「緩急よろしき」というのは、「緩(力みがとれる)は作るものではなく、急(ハードな訓練)の後に自然と訪れるものだ」ということだろう。

 因みに、成績が向上しない生徒が陥りやすい習慣のひとつが、好きな教科にだけ時間を費やす学習だ。最初から弦を緩く張っているようなものだから、成果は期待できない。試験では何が出るかわからないから、教科書の隅々まで、小さい脚注にも注意を払い学習する必要がある。疑問があれば先生に質問するもよし、憶えられないなら繰り返し繰り返し復習しなければならない。好きなことだけするのは趣味であって学習ではない。好きなことも嫌いなことも勉強するのが学習。嫌いな教科を避けているようでは、いざという時、不安が増幅し力を発揮できない。

 そして、勉強する上で、心しなければならないことがもう一つある。学習は難問への挑戦ではなく基礎・基本の習熟にあるということだ。福岡の予備校で教鞭を執られたいた(故)磯野幸先生の言葉を思い出す。「基礎の上に基礎があり、基礎の下に基礎がある」と。ここで言う基礎・基本とは易しい問題を解くということではない。原理・原則に従って知識を系統的に整理することを指している。難問・奇問もヒントは基礎・基本、すべてが教科書に記載してある。東大に合格した松野君(23才)は、高校在学中、躓くと教科書に返ることを繰り返していた。まさに、教科書が最良の参考書だということの証だろう。

 ところで、現在のセンター試験は知育偏重であるとして、平成35年度から学力評価テスト(仮称)に変更される。「知識だけでなく考える力を問う」というのが目的である。「今までの学びはパーツを作っていたにすぎない。例えば、中高では、英単語を覚える、方程式を作る、化学反応式を覚えるだけのパーツ作り、その量と質を問うのがセンター試験ということだった。これをもっと発展させて、そのパーツを使って何ができるかを問いたい」との談話だ。国語の記述式問題や英語の外部試験導入が検討されている。全貌が判明するのはもうしばらく先のようだが、「考える力」というのは物作りに似ているから、立派な物を作るには、まずは立派なパーツ(部品)を揃える必要がある。受験もしかり、国語や理科や数学など授業で学ぶ内容がパーツである。しかも、組み立て技術(思考力)まで問うのだから、パーツの精巧さが益々重要になる。

 試練を乗り越えるための必要条件は、スポーツも学習も同じ、「急(ハードな訓練)なくして緩(力みがとれる)ならず」の教えを心しておくこと、そして、その訓練は基礎・基本の徹底にあること。文徳学園は、皆さんのひとり一人の夢実現を応援し続けます。生徒諸君の日々の精進を期待する。

2017/4/14 金曜日

Filed under: おしらせ — admin @ 7:44:24

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文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第151号

                                  

            『私は私を創っていくただ一人の責任者です』  

                                                                      学校長 荒木 孝洋

               

 寒さのせいで桜の開花が例年より遅れたが、入学式を待っていたかのように開花した。あいにくの雨模様での入学式だったが、希望に満ち溢れた高校生活のスタートであったものと確信します。新たな環境に戸惑うことがたくさんあると思うが、自分の抱いている夢をもっと大きく膨らませ、将来を見据え、夢を実現するために精進して欲しいと思っています。入学式では、これからの高校生活について3つのことを希望しました。抜粋して紹介します。

 一つ目は“近道をせず、失敗をしてもよいから、何事にも勇気を持って挑戦する”ということです。皆さんは、感性豊かで高い能力を有していますが、夢実現に向けてさらに多くのものを吸収し自らを磨き上げる必要があります。人は失敗や挫折を経験し、それらから学ぶことで成長します。夢を叶えよう、幸せを掴もうと思えば、人は行動し、時には変わらなければならないこともあります。(中略)「私は私を創っていくただ一人の責任者です」という言葉がありますが、個人の適性というのは、初めから固定して備わっているのではなく、行動し、体験する中で、隠れていた才能や特技に気づくものです。大切なことは失敗をしないことではなく、自らの意志で何かをはじめ、きつくとも継続することです。近道しないことです。五年先、十年先に世間から必要とされる人間に成長していただきたいと思います。

 二つ目は“規律ある行動をする”ということです。本校の生徒は、明るく・素直で・礼儀正しいという評価を得ておりますが、それは、自他の存在を認め、互いに助け合うことの大切さを認識しているからであります。規律ある行動は本校の校風であり、皆さんにも受け継いでいただきたいことのひとつです。「時間を守る」、「爽やかで大きな声の挨拶をする」「人をいじめない」誰でも簡単に出来ることです。自分のことを自分で行うのは当然のこととして、周りへの気配りも忘れないでいただきたい。一人一人が規律を守り、品性を備えた行動をすることで、学校全体にも文化の香りがうまれてきます。「自分の行動を律し、自立した人間」を目指して集団生活を送って下さい。

 三つ目は“よき友を作る”ということです。生涯にわたりつきあえる友は、かけがえのない財産です。利害や打算を抜きにした真の友人が得られるのは今日から始まる高校時代です。目先の利害や遊び半分に調子を合わせるだけのつき合いならば、共に足を引っ張るだけであって、低きに流れ、取り返しのつかない悔いを残すことになります。真の友情は、真剣に努力しあう人と人との間にこそ生まれるものです。学校は勉強する場であると同時に、様々な活動を通して友達を作り、互いに切磋琢磨する場でもあります。長い人生をさえさ合う強い絆の友情がうまれることを期待します。

 以上、三つのことを述べましたが、皆さんにはこれからの三年間で大きく変身して欲しいと思っています。文徳高校は人生を生き抜く「体力・気力・そして学力」を身につける道場であると考えて下さい。文徳での三年間を楽しくするのも、つまらなくするのも結局、君達自身の意志力と行動力にかかっているのです。これまで頑張ってきた人は更に頑張ること、中学時代を少し反省している人は今日から頑張れば大丈夫です。いずれにしても、具体的な目標を設定し、「ガンバレ自分」と自らを励ましながら、自分の能力に磨きをかけて欲しいと思います。日本一元気で楽しく、夢と希望に溢れる学園を目指してみんなで頑張りましょう。文徳高校は、「叶えますあなたの夢、鍛えます体・徳・智」を合い言葉にして、皆んの夢実現に向けた精進を全力で支援します。

2017/1/17 火曜日

Filed under: おしらせ — admin @ 17:35:00

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文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第150号

 

        『you might think・・・ 』 

 

                                                                     学校長 荒木 孝洋

 

 暦の上では間もなく大寒、一年のうちで一番寒い季節がやってきた。朝の挨拶も「寒いですね」から始まる。20年も昔のことだが、今でも思い出す。今日のように気温がマイナス○度の寒い朝だった。1限目の国語の授業、S先生は黒板に次のような英語を書かれた。『You might think but tody’s some fish』。意味が解らず戸惑っている生徒たちに向かって、S先生は次のような訳をつけられた。『You might(言うまいと)think but(思うが)tody’s(今日の)some fish(寒さかな)』。日本語の読みと英語をない交ぜにしてあるのである。しかも、訳した日本語は5・7・5調の俳句になっているではないか。その後、授業は「俳句を作る」という本題に入った。推測するに、S先生の授業はいつもこんな形で進められていたのだろう。テストの平均点は、いつも他のクラスを大きく引き離していた。しかも、先生の授業に魅せられたファンも多く、休み時間や放課後になると、S先生の周りには質問する生徒が殺到する。また、教材研究に最も力を入れておられ、その単元に関係する書籍はすべて読まれており歩く本屋さんと呼ばれていた。私も、先生の授業を見習って努力はしてみたものの、とうとうその域に達することなく教師生活が終わってしまった。

 ところで、文徳学園では、この3学期の重点目標として「教室の環境整備」を掲げている。掃除の徹底や整理整頓はもちろんのこと、「真剣に学ぶ教室を作ること」ということである。現役の国語教師として52年間、73才まで授業をされた大村はまさんの言葉を借りると、勉強に打ち込める教室とは「安らかに、しかし、締まった雰囲気であること。安らかとは、読み書きに集中できるのびのびとした雰囲気、特別に一生懸命するでもなく、怠けてもいない平静さ」ということだそうだ。大村さんは、授業の準備には命をすり減らすほどのエネルギーを注がれていたが、授業については「ロウソクのように静かに燃えていることが大切だ。固くなく柔らかすぎず、穏やかで平静であって礼儀正しく、甘ったれることなく。それがものを学んでいく姿勢です」と話されている。また、教師の在り方についても、著書「教室をいきいきと」の中で次のようなことを具体的に記されている。幾つか抜粋してみる。(1)子どもができなくても慌てたり驚いたりしないこと。子どもが失敗しても、教師は悠々としていること(2)出来不出来をあまり褒めたり貶したりしないこと。善し悪しを決めるだけの褒め言葉は避ける。優劣ではなく、ひたすら学ぶ世界を作ること(3)子どもが失敗したら、顔色を変えるより対策を講じること。忘れ物を叱っても忘れ物は見つからない(4)レントゲンで体を調べるように子どもの頭の中を見透かすこと(5)柔らかな話し方を練習しておく。聞こえる程度、大きすぎない方がいい。人の前で黒板に字を書く練習もしておくこと。書いたら教室の後ろから眺めてみること(6)授業にはホッとするヒトトキがいる(7)下手な発表をさせない。成功しないと思ったら発表させない。失敗から学べる生徒は少ない。・・・他にもいっぱいありますが、先生の著書を御一読下さい!。

 昨今の教育改革は忙しすぎて戸惑うことが多い。「ああせよ。こうせよ」と指図するのが学者、「知らぬまにできるようにする」のが教師。学者の真似をしても子どもはついてこない。新劇女優の山本安英さんは「自分が何を読み、どう勉強しても、それが舞台で生かせなければ、意味がない」と、役者の難しさについて述べておられる。教師も役者と同じ、子どもが理解できてナンボの世界。教師は、自由に意見をぶつけ合う切磋琢磨の中で力量アップしていく。文徳では若手教師の研修が盛んである。指導案を全員で作り、代表して誰かが研究授業をすることもある。

Buntoku school is developing(文徳は発展途上の学校です)

2016/12/14 水曜日

ボーダーレス

Filed under: おしらせ — admin @ 17:30:12

文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第149号

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             『ボーダーレス』      

                                                                  学校長 荒木 孝洋

 

 暦の上では師走、学校は、後一週間もすれば2学期の終業式を迎える。「もう幾つ寝るとお正月。お正月にはタコあげて、コマを廻して遊びましょう。・・・」と浮き浮きしながら新年を迎えたのはいつ頃までだったろうか。年をとると、節目をさほど意識しないままに新しい年を迎えてしまう。境目がなくなるのは気持ちだけではない。「どこまで顔で、どこから額か?」区別がつかないほど広がる額と薄くなる頭髪、鏡を見るたびに困惑する。仕方ないことだが、年を重ねると、身も心もグローバル化し境目が消えグレーゾーンが広がる。

 ところで、グローバル化の時代、その特徴は、ヒト・モノ・カネ・情報が国境を越えて高速移動することだが、結果として、時には、その勢いに押し流された人々が、格差と貧困の餌食になっていく。この現象が、打倒グローバルを唱える市民の声になって国々の政治を揺るがしている。そんな状況の中、国々は「国境なき時代をどう共に生きるか?」といった難題に直面しているが、欧米の進む方向はどうも違うようで気になる。マスコミ報道によると、アメリカの次期大統領トランプさん発言には、「TPP脱退」「メキシコ国境に壁を作る」「自分の国は自分で守れ」「難民受け入れ制限」「国民皆保険撤廃」など、塀を高くして自国を守るバリアー強化の方向性が見え隠れする。イギリスのEU離脱、欧州に広がる政治の右傾化も同一路線のようだ。日本はどうだろうか?。「強い日本を取り戻す」、安倍首相の言葉が気になる。自国優先が顕在化すると、当然、他国との間に垣根ができ、軋轢や争いが生じる。欧米と同じ道を辿らないことを祈っている。

 先日の熊日新聞に掲載されていた「反グローバル化の落とし穴」という記事が目にとまった。同志社大学大学院教授浜矩子さんの論説である。2008年のアメリカ大統領選に出馬したジョン・マケイン上院議員の言葉『グローバル経済化に抗議するのは、お天気に向かって異を唱えるのと同じことだ。いくら文句を言っても変わらない』という言葉を引用しながら、「我々がいくら嫌がっても、雲の動きや前線の進行を止めることはできない。だが、誰かが悪天候の犠牲となって窮地に陥った時、その救出のために、他の人々が立ち上がることはできる。(中略)やってはいけないことは、災害から逃れて避難してくる人々を閉め出すことだ。自分たちの頭の上だけに、天災から身を守る屋根を作ることだ。自分たちのためだけに堤防を作って、その内側から他者を排除することだ。格差や貧困の原因をグローバル化に求めてはいけない」と警鐘を鳴らされている。合点である。国のリーダーがとるべき道は反グローバルではない。むしろ、敗者や弱者への温もりのある施策だと確信する。

 一方、教育現場も『グローバル』をキーワードとした改革が目白押し。小学校からの英語教育、タブレット活用の促進、大学入試における英検やTOEFLやTOEICの活用・・・。本校の英語教師、H先生はどんな外国人とも流暢な英語で会話ができるスーパーティチャーである。彼の言によれば、「会話は慣れ!、その気になれば、その環境になれば、誰でも英語は喋れる。義務教育で大切なことは、知識や判断力を涵養することだ。小学校に英語はいらない」と。英語はコミュニケーションのツール、喋れるにこしたことはないが万能ではない。排他主義の風潮が見え隠れする欧米だが、「目には目、歯には歯」の交流は必ず行き詰まる。幸い、日本には、古来から日本人が大切にしてきた“惻隠の情”という文化がある。時代は大きく変わったかもしれないが、「弱者を思いやり、相手の立場に立ってものを考える」交流こそ、難題「国境なき時代をどう共に生きるか?」の回答と考える。

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