2011/6/22 水曜日

教科書は最良の参考書

Filed under: おしらせ — admin @ 10:01:11

文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第83号

         83-1.JPG       83-2.JPG

                  『教科書は最良の参考書』

                         学校長 荒木 孝洋 

 私が中学生だった頃と比べ、教科書のスタイルは様変わりした。形が週刊誌大に大判化し、カラー写真や挿絵がふんだんに使われている。内容は時代の変化に応じて改訂されているが、無理・無駄・斑(むら)がまったくない。洗練された文言が並び、編集も丁寧で必要ないことは一切書かれていないのが特徴だ。例えば数学では、定義から始まり定理とその証明がそれに続く。例題では考え方や解法が丁寧に記され、読むだけでも習得できる。さらに、練習問題、演習問題、発展問題と順次難度が上がる。つまずきを点検することで習熟度も自己診断できるシステムになっている。また、巻頭言には、さまざまな角度から教科を学ぶ意義が記載してある。例えば、ある国語の教科書の巻頭言には、加藤周一さんの「言葉の楽しみ」を取り上げ、「ケータイ電話を用いれば、どこにいても、友達と話すことはできる。しかし、わが身のふり方を聖徳太子に相談するわけにはいかない。 古今東西の偉人たちに、自由自在に意見を求めることは、本を読むことでしかできない」と言った案配である。目次を見ると、昔と変わらぬ高村光太郎の「レモン哀歌」、太宰治の「走れメロス」、夏目漱石の「坊ちゃん」が並ぶ一方、新しい筆者もいる。重松清、星野道夫、龍村仁・・・。活字や装丁に変化を付けた週刊誌や参考書に比べると無味乾燥に見えるかもしれないが、他のどの参考書よりも立派にできている。今も昔も教科書は永遠のベストセラーだ。受験勉強は塾や予備校でするものと思い込んでいる中学生や保護者が多いかもしれないが、『教科書は最良の参考書』であることはしっかりと憶えておいて欲しい。

 ところで、教科書が無償給付されるようになったのは48年前の昭和38年からだ。小中学生の教科書の裏表紙には小さな字でこう記されている。「この教科書は、これからの日本を担う皆さんへの期待を込め、国民の税金によって無償で支給されます。大切に使いましょう」と。毎年、4月になると小中学生には新しい教科書が配られるが、先人の思いや、日本人として憶えておかなければならない事項など宝物がイッパイ詰まっている。無償給付である理由、「若者の未来への期待である」に思いを致し、大切に使って欲しいと願わずにはおれない。 

 文徳学園は子供の成長段階にあわせながら、教科書に沿って基礎基本をジックリ習熟させます。人よりどれだけ早く進んだかより、どれだけ深く考えたかを大事にします。キーワードは『進度より深度』です。 

《文徳中学・高等学校オープンキャンパスのお知らせ》

 期 日:7月17日(日)

    9:30

 内 容:学校説明・学校見学・授業見学・ミニ授業

     理工科作品展示など

     部活動・寮見学(希望者)

その他:ちゃんこ鍋・フライドポテト・かき氷

    ジュースなどを準備しています。

2011/6/2 木曜日

心の断捨離

Filed under: おしらせ — admin @ 10:47:19

文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第82号

         82-1.JPG  82-2.JPG

                『心の断捨離』

                           学校長 荒木 孝洋

 家を建てて30年が過ぎた。あちこちに不具合や傷みが目立つようになったが、私の経済力からしてそう簡単に立て替えはできそうにない。30年前は広々としていたはずの部屋も雑多な蒐集物と不用品に近い雑物でイッパイ。うんざりしながら部屋を眺めると、今流行の『断捨離』という言葉が浮かんでくる。思い出の品や記念に頂いた物、子供のおもちゃや着古した流行遅れの洋服など、もう使うこともないだろうにと思うが、捨てるとなると決断が鈍る。買うより捨てる方が難しい。パソコンなら一気にリセットできるのだが・・・。

 作家の勢古浩爾さん(63才)は『生き方』について、著書「ぶざまな人生」の中で次のように述べられている。「本を書くことを含めて、責任のとれないことをしでかすことを含めて、人をやむなく裏切ってしまうことを含めて、人と競争し、自分を証明しようとするそのあさましさを含めて、私の人生は『ぶざま』である。これは態のいい自己懺悔ではない。『ぶざま』でなければ生きられない。だが、『ぶざま』を自覚しなければ生きている資格がない。・・・『何のために生きるのか』などわからない。人生に目的はない。当然、自分が意志して生まれてきたわけでもないのに、目的も意味もあるわけがない。では、『ぶざまな人生』をどう生きるか。一生懸命生きる。驚こうとあきられようと、人生はこの一言に尽きる。ぶざまであろうとなかろうと、一生懸命生きる。これが自分の人生だ。あとは、なるようにしかならない。命は運ばれていく」と。自虐的な文言が並んでいるが、物の『断捨離』より心(意識)の『断捨離』が大切だと指摘されている気がする。いかなる境遇や環境であっても『一生懸命に生きる』ことがキーワードだろう。充実したセカンドライフとか、自由にできる楽しい生活とか、マスコミの流す情報は、年金とわずかばかりの貯金で細々と生きる年寄には何の意味もない。知ったからといって何の役にも立たない。年老いていく者にとっては、『持ち物』を、『こだわり』を、少しずつ手放しながら次の生き甲斐を見つけていく、それが、一生懸命に生きる証ではなかろうか。

 ところで、東日本震災から2ヶ月が過ぎた。被災地では不自由と不安が交錯する中で懸命の復旧作業を続けられている。「復興計画を早急に示せ」と言う声も多いが、家族を亡くし、住居を失くし、仕事を無くし、強制的に物の『断捨離』をさせられた方の心情を想うと、新しい街づくりはそう簡単ではないはずだ。戦後凄まじい勢いで復興した日本の経済力だが、先頭に立って陣頭指揮する政治家の指針も心許ない。追い越せ中国とか、国際的地位の向上、国際競技大会でのメダル獲得数とかが復興計画の照準にされるようでは、日本は外国人から笑われる。与野党の思惑ばかりが見え隠れする政界、『断捨離』が一番必要なのは政治家ではなかろうか。 確かに、日常生活を無事に過ごすためには経済の運営は大切だし、ほどほどの収入がなければ、清貧などと恰好をつけることもできないが、今回の復興計画は、経済成長に囚われた社会の在り方を見直すチャンスでもある。経済成長という呪縛こそ、今日の私たちの苦しみの根源だということを冷静に考える必要がある。景気がよくなれば、幸せが戻ってくるわけではないことは、もう誰しも気づいていることだ。景気なんて循環する。「生きていることが喜びである」ような社会であって欲しいとみんな考えている。その喜びの質や内容については日本人の大多数はそう隔たりはないはずだ。社会は個人の環境に過ぎないし、人間である限り苦しみは個人の宿命である。被災された方だけでなく大多数の国民は、『質実だが心が伝えあえる、いい雰囲気の世の中になる』ことを願っている。東日本震災の復興は『心の断捨離』にありと思う昨今。

Copyright(c)2009 Buntoku high school, All rights reserved.