2014/9/17 水曜日

自己チュー

Filed under: おしらせ — admin @ 10:13:13

  

文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第125号

 

              『自己チュー』

                           学校長 荒木 孝洋

 

 ごく自然なことだが、人は自分が住んでいる所や見えている世界を基点にものを考える。だから、日本が真ん中にある世界地図を広げてると、あたかも日本がその中心にあるかのように錯覚してしまう。それはそれでよいのだが、別の国では自国が中心にある世界地図しか見ていないことも知っていないといけない。人間関係もしかりだ。自分は世間の中心にいると思っても、相手からすると「あなたは世間の片隅で生きている」ということになる。ひと昔前「自己チュー」という言葉が流行した。自己中心的な人を揶揄する言葉だが、特定の人を指しているのではない。自分が世界の中心、あるいは世間の中心にいると思った途端に、みんな自己チューになる。となると、片隅で生きる人間が目を凝らして世間を理解するためには、いろいろな他の人たちの立場や視点に立って世界や世間を見ようとする努力が必要となる。そのための知識や視座を養うのも教育の大切な役割である。振り返ると、誰もが通過した道だが、幼少期は自己チューの権化、思い通りにならないと泣き叫ぶ。学年があがるにつれて、周りが気になり、友とのちょっとした諍いに不安を覚えるようになる。そして、大人になると、子育てや仕事のことで悩み、さらには、世間の出来事や世界の世情不安に苛立つことになる。つまり、成長するというのは、周りが見えるようになることだ。 

 ところで、新聞でもTVでも大きくは取り上げないが心配なことがある。高校の「日本史」必修の動きだ。この秋に中央教育審議会から諮問されそうだが、必修科目の変更で「世界史」が必修から外されることになりそうだ。ここ10年、世界史の教科書は量的にも膨大だから、学校現場では四苦八苦しながら教えてきた。しかし、全ての高校生が世界史を学ぶことで、曲がりなりにも客観的に世界の歴史を学ぶことができたのに・・・。日本史も大切な科目ではあるが、世界史を学ばずに日本史だけとなれば、日本を中心にした世界の歴史しか学ばない国民が量産されることになる。そうなると、「世界の歴史は自分たちの国を中心に展開されてきた」と錯覚する国民だらけになってしまう。今でも日韓や日中関係はギクシャクした自己チューレベル。「目には目、歯には歯」の両国関係。こんな時、「国民的レベルで自己チューをもっと強化してどうするのか?」と心配になる。しかし、懸念の声を上げても、「日本史を学ばないと日本人の尊厳が失われる」と主張する自己チューの人たちはそんなことお構いなしのようだ。

 仏教の法話に『母から子への請求書』という話がある。「子どもが小遣い欲しさに『肩たたき100円、掃除100円、茶碗洗い100円・・・合計500円』と記した請求書を母親に渡す。その返信が500円玉と母から子への請求書である。『熱を出したときの夜通しの看病代タダ、洋服の洗濯代タダ、ごはんの支度代タダ、これまでの育て賃タダ、・・・全部タダ』。これを読んだ子どもは母親の財布にそーっと500円玉を返す」そんな話である。自己チューとは対極の世界、母親の無償の愛を感じた子どもは自分の我が儘に気づき、自己チューと決別したのだろう。金子みすずの作品に『鈴と、小鳥と、それから私、みんな違って、みんないい』という詩がある。「すべての存在がそのままで素晴らしいと気づいたときに『私』中心だった眼差しが『あなた』に向かっていく」という意味だと思う。「私にできることが相手にはできない、相手にできることが私にはできない」、そんな風にお互いに別々の役割や仕事があってお互いに結びついているのがこの世のしきたり。「俺が、俺が」の連発ではうまくいくはずがない。「補完と役割、そして、共感と感謝」をキーワードにして自己チューとオサラバしたいものだ。

 

2014/9/4 木曜日

不便が人を磨く

Filed under: おしらせ — admin @ 8:00:53

   

 

文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第124号

 

              『不便が人を磨く』

                           学校長 荒木 孝洋

 

 8月25日、多くの学校ではまだ夏休み。軟式野球部は明石で全国大会の開会式を迎えているが、文徳では一足早く二学期が始まった。毎年のことだが、夏休みは高校生にとって鬼門である。生活のリズムを崩し学校に来れなくなる生徒がいるからだ。「元気にみんな揃っているかな?」と気にしながら二学期の始業式を迎えた。

 ところで、新聞もテレビのCMも通販の宣伝で溢れている。珍品から利便性を備えた優れ物までと幅が広く購入欲をそそられる。値段もほどほどだからついつい買ってしまうことも多いようだ。我が家の「健康ぶら下がり器」や「トレーニング自転車」も使ったのは数度、今は脱ぎっぱなしの洋服に埋もれている。健康食品やサプリメントもしかり。「心臓によいから」「血液サラサラ」「健康ダイエット」など、健康に良いと聞けば、飲んだり食べたりしてみたくなるのが人の常。成分上健康を害する成分は含まれていないし、値段もほどほどだからつい試してみたくなる。がしかし、健康食品として販売されている内の半数は飲んでもそのまま体外に排出されてしまうものらしい。しかも、人間の体は必要以上の養分は吸収しない仕組みになっているから、食べても飲んでも効果は期待できない。もちろん精神的に安心感を与える効果は期待できそうだが・・・。

 通信販売の教材や添削講座もこれと似ている。それぞれに工夫され立派な教材であっても、それを消化し理解できなければムダになる。ある大手の添削講座を実施している会社の方から聞いた話だが、「添削講座を申し込んでも、実際に継続して添削指導を受ける人は3割にも満たない」という実態だそうだ。授業の予習・復習だけでも相当時間を割かねばならないのに、大量に送られてくる添削までこなすとなれば消化不良になるのは至極当然なことだろう。『過ぎたるは及ばざるが如し』と言う諺の通り、吸収できない健康食品も、消化しきれない大量の添削教材も買ってからでは手遅れ。宣伝に惑わされない知恵と知識も身につけたいものだ。

 一方、指導者である我々教師も気をつけなければならぬことがある。往々にして教師は、成績が下がると長時間の学習を強いたり大量の宿題を出したりしがちだ。部活動でも技量が下がるとハードな練習メニューを課してしまうことがある。対策として陥りやすい落とし穴である。もちろん、それで力量アップすることもあるが、子どもの意欲と能力をきちんと把握していないと、やってもやっても成績が伸びなかったり、試合でも勝てないことになる。結果が出ないと、原因を子どものせいにしたり、叱ったり見捨てたりすることになる。「怠けが原因なのか?」、「与えすぎて消化不良になっているのか?」を見極めるのが指導者の力量である。

 「不便が人を磨く」という言葉が思い浮かぶ。長年教師をしていると、教育は「与え過ぎるよりむしろ少し足りないぐらいがちょうどいい」ということを実感する。先日、映画「世界の果ての通学路」を見たが、登場してくる子どもたちの輝く瞳が目に焼き付いて離れない。ケニア、インド、モロッコ、アルゼンチン、いずれも日本では想像できないような教育環境である。遠くて危険な通学路を走って学校に通う子どもたちが皆、キラキラと輝く瞳で未来を語っている。ついつい日本の子どもと比較してしまう。今の日本の子どもに最も必要なのは、早急な教育改革でもなければ、環境改善でもない。もちろん、便利な教材や長時間の学習でもない。「ひとりで考える時間」を与えてやることだ。

 

Copyright(c)2009 Buntoku high school, All rights reserved.