2016/10/26 水曜日

思いの蓋を開けてみる

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文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第147号

 

         『思いの蓋を開けてみる』                                                                    学校長 荒木 孝洋

 

 自分を変えてみようと思うのは若い時ばかりと思っていたが、そうでもない。歳がいくつになっても、時々新しいことに挑戦したいと思うことがある。心に響いた本に出会った時や、映画で感動した時、凄い人に出会ったときなど、そういう思いを持つ瞬間がある。でも、時間が経つと、持続できることとそうでないこととに別れてくる。その違いはどうも思いの蓋が取れているかどうかにあるようだ。「思」という漢字の語源は辞典によると、頭(田)と心の組み合わせだそうだが、「思」から横線と縦線2本からなる蓋(冂)をとると「志」という字が表れる。「思」と「志」の意味は、似てはいるが向かう方向に違いがある気がする。「思」いは、例えば思い出や思い込みなどのように、自分に向けられるものだが、「志」はある目標の達成を目指すという、外に向けられた強い覚悟が含まれている気がする。「勉強して頑張って、世のため人のために役立つ人になろう」という高い志を持って入学した生徒諸君も、日々の授業や部活動に追われていると、気付かぬうちに志に蓋がかぶさって内向きになってしまう。「忙しい」とか「時間が足りない」「キツイ」「面倒くさい」など自分中心に考えるようになるが、内向きでは前に進めない。では、志に蓋が閉まってしまわないようにするにはどうしたらよいのだろうか。キーワードは「凡事徹底」だと思う。

 6年前のことだが、沖縄の興南高校の野球部が春夏連覇という偉業を成し遂げて話題になった。監督の我喜屋先生は、その頃のことを次のように述懐されている。着任早々、生徒に徹底させたのは練習だけではなかった。就任したころ、寮生活する生徒は寝ない、起きられない、食べられない、整理整頓できない、挨拶ができないという状態だった。人としての根っこの部分がしかりしていれば野球はうまくなるという信念のもと、「時間厳守、整理整頓、挨拶といった基本を徹底して指導した」と話されている。椅子は両手で出し入れして音をたてず、食器の片付けも音を立てないといった、大人ですらできていない人が多い習慣を身につけさせたのです。もちろん、野球の練習も相当ハードだったと思うが、就任して3年後の2010年には見事春夏連覇を達成されました。似たような話を熊本出身の柔道家山下泰裕さんからも聞いたことがある。世界選手権に向けた合宿中の出来事、大先輩の神永昭夫さんがトイレのスリッパを並べている姿を見て、「これが神永選手の強さの秘訣だ」と思った山下選手は、「稽古だけでは神永選手には勝てない。心と感性にも筋トレが必要だ。まずは、立ち振る舞いを正すこと」と決意した。そして、その年行われた世界選手権で見事優勝しました。想像するに、興南高校野球部も山下選手も技量を磨くためのトレーニングに加えて、日常生活の中で心の筋トレを実行し習慣化したことで、技量が昇華し頂点を極めたのではないかと思う。

 ところで、3年生は受験本番、11月になると推薦入試が始まり、1月にはセンター試験を迎える。毎年のことだが、この時期になると成績が急激に伸びてくる生徒がいる。彼や彼女たちに共通することは基礎基本をしっかりと身につけていること、受験に関係ない教科の学習にも手を抜かないことだ。加えて、素直で欠席が少なく掃除も丁寧にするし、整理整頓が上手なことも共通点だ。こんな言葉を聞いたことがある。「心を磨くには、とりあえず、目の前に見える物を磨ききれいにすること。心は、いつも見ているものや、いつも聞こえてくる言葉や喋っている言葉に似てくる。誰にでもできる平凡なことを、誰にもできないくらい徹底して続ける事で、平凡の中から生まれる大きな非凡を知ることができる」と。人が見ていようがそうでなかろうが、続けてやるのが凡事徹底。逃げてばかりいると「思」いの蓋は閉じたまま、そのうち魂(心)が消えて残った頭(田)の中には後悔という雑草が生い茂るだけだ。

2016/10/7 金曜日

砂上の楼閣

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文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第146号

 

             『砂上の楼閣』      

                        学校長 荒木 孝洋

 

 つい先日のこと、近所の公園に行くと、5・6人の小学生が輪になって「ワア、ワア」と騒いでいる。覗き込むと、どの子も指をピコピコと動かしゲームに熱中している。「今は、子どもの遊びはこれか」と言葉を失う。昔なら想像できないような光景が日常化している。セミをとるでもなし、鬼ごっこするでもなし・・・電子機器の広がりに困惑。「小学生にスマホもパソコンもゲームも不用だ、戸外を走り回れ」と叫びたくなる。この現象は、子どもの世界だけではない。科学技術の急速な進歩によって大人の世界も様変わりした。例えば、プレゼンテーションソフトやプロジェクターは講演や説明会で必須のものとなっている。画像を通してプレゼンテーションできるから、説明しやすく時間も短縮できて効率的だ。準備に時間が必要だが、それをコピーして配布できるから資料を作るのと変わらない。しかも、聞く人にとっても見やすく分かりやすい。

 しかし、こんな便利な機器が開発されているのに、学校教育への普及は進んでいない。「授業でなぜ使わないのか?」不思議に思われるかもしれないが、理由は、教師が教育方法の改善や教育機器の利用を苦にしているからではない。一般に講演会などで使われる場合は提示される情報はその段階で完結しているが、学校教育の場合は違う。明日の授業は今日の学習の上に展開する石垣を積むような作業である。全ての生徒にその時々の学習内容を理解させ、知識を確実に定着させなければならない。ビデオを巻き戻すような復習もシバシバ。時には個人指導も必要になる。パソコンで文章を作るようになり「漢字は読めても書く自信がない」という話をよく聞くが、利便さの裏には落とし穴がある。教育機器を使うと説明の能率は上がるが、その分、手作業が減り定着率はむしろ低下する。

 佐賀県武雄市では全国に先駆けて、小中学生全員にipadを配付し、自宅学習を前提とした反転学習を開始した。子どもの8割は「楽しい」と感想を述べているが、小学5年生の算数の学力テストの成績は、実施前と比較してもほとんど差がないそうだ。試行されて間もないから断言はできないが、動画は一時的な記憶には残っても、知識の蓄積には繋がりにくいようだ。自分で想像を働かせてノートを作り、手に豆ができるほど書きまくり学習をする、この繰り返しが、むしろ、大切な気がする。授業でグラフィカルな動画を見せるのは効果的だが、知識の定着との両立はそう簡単ではない。私が教師になった50年前にも同じ課題にぶつかっている。当時、オーバーヘッドプロジェクターが登場し、黒板なしでも授業ができる画期的な教具としてもてはやされたが、しばらくすると消滅した。なぜ?、結論は実に平凡だった。「知識は見ることや聞くことよりも、読み・書きによって定着する」ということだった。

 子どもたちは新しい知識や情報を入手し、それを咀嚼し自分のものにするまでには時間がかかる。繰り返し繰り返しの試行錯誤の中で知識は定着していく。「反復練習や反復書写といった単純な作業は考える力を育まない」といった主張の教育論もあるが、江戸時代の寺子屋では、読み・書き・計算を繰り返し、明治維新を担った若者たちは『四書・五経』を暗誦している。意味不明の文章でも10回も読めば憶えもするし、時間をかけてジックリ学ぶことで疑問や文中に隠された奥深い意味も理解できるようになる。悪戦苦闘のアクティブな一人芝居を通した学びから自分の意見や感想も湧いてくるに違いない。他人の意見はその後で聞けばよい。最初から人の意見を聞くだけ、あるいは、無定見の思いつきを喋るだけの『アクティブ・ラーニング』はメダカの学校だ。電子機器や欧米の教育方法論を推奨する議論はスマートで華やかだが、それに偏るのは危険である。『読み・書く』の教育活動は『見る・聞く』に比べるとまどろっこしい学びだが、手書きや反復練習などの泥臭い教育実践を軽視していると、学校教育は砂上の楼閣になってしまう。

 

2016/9/26 月曜日

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文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第145号

          『ロボットは万能か?』      

                        学校長 荒木 孝洋

 台風16号接近、子どもの安全が最優先と始業を2時間遅らせたが、進路がそれてホッとした。しかし、台風が通過した鹿児島や宮崎方面では甚大な被害が出ているようで、台風銀座と言われている九州人としては人ごととして済ませられない。最近は台風の進路予測もGPSにより精度が高くなり降雨量や風速まで刻々と伝えられ、天気予報も様変わりした。特に災害予報については、熊本地震以降心身ともに過度に反応してしまう。

 ところで、GPSだけでなく文明の利器の広がりは想像を絶する速さで進展している。スマホ、デジカメ、エアコン、ロボット掃除機、ゲームポケモンなど、世界は人工知能の時代に突入し、与えられた命令のもとに制御されている人工知能により私たちの生活は便利で快適になる一方だ。ポイントはAI(人工知能)である。コンピュータの計算速度が飛躍的に向上したことにより、人間に近い知的な処理がスムーズに行われるようになった。その結果、一定の形式を持つ業務(仕事)はAIで代行できるようになり就業構造がガラリと変わってしまいそうだ。見渡すと、50年前はなかったものが家の中にもゴロゴロ。テレビ、携帯、炊飯器、ガス。今では、エアコンなしの車を探すのも難しい。福島では、原子力発電所の事故処理の一部をロボットが担い、熊本地震では、壁面が崩落した57号線の道路復旧が、自動運転のダンプやショベルカーで作業が進められるなど、人間にとって大きなリスクのある活動に対しても極めて便利な文明の利器となっている。また、GPSとセンサーやカメラ映像解析技術を搭載した自動車は、運転時に人間が行っている知的判断をプログラム化し、人工知能による自動運転も実用化されている。また、佐世保のホテル「変なホテル」(名前も変だが)ではロボットが受付や部屋の案内までするそうだ。

 しかし、人工知能を搭載したロボットは生活に利便さをもたらすだけではない。使い方を誤ると人を殺傷し物を破壊する兵器にもなってしまう恐れがある。すでに、米国は、アフガニスタンなどで「対テロ戦争」に遠隔操作の無人機(ドローン)を投入している。また、イスラエル軍は自動運転の軍用車を実戦配備し始めたとの報道もあるし、同様の兵器を米国、中国、ロシアなど少なくとも6カ国に開発能力があると言われている。本来、人は人を殺すことへの心理的抵抗があるが、何の痛みもなく敵を殺傷できるようになれば、戦闘行為に歯止めがきかなくなる。人を殺傷しても、現場からは遠い操縦室では被害者の苦しみも恐怖も感じないだろうし、攻撃の決断まで機械に委ねることになれば、戦争を現実感のないゲームにしてしまう恐れがある。人工知能を搭載した災害救助ロボットも自動運転の自動車も戦車もドローンも仕組みは同じである。使用目的を誤ればとんでもない事態に突入する。兵器も救援道具も開発には境界線がないだけに人類は新たな難題に向かい合うことになる。

 すでに報道されていることだが、我が国はこれからさらに少子高齢化が進み、労働人口は減少し、税収も減っていく。ロボットや人工知能の活用は、このこととも無縁ではない。新しいテクノロジーを上手に活用し、人間がより人間らしい仕事に従事するとなると、子どもたちはテクノロジーを的確に用いる力を身につけることが求められる。新しい指導要領には、新たに「プログラミング教育」が加わり学校教育の範囲が広がる。コンピュータがどんな仕組みで動き、何ができ、何が苦手なのかを教えるだけでなく、「コンピュータをどう使っていくことが、より人間らしく生きていくことに繋がるのか」を教えることが肝要である。小さい頃、「道具に頼るな、手足を動かせ」と親父から言われたことを思い出す。「人間の五感を大切にしなさい」と理解している。最近は、病院に行くと触診ではなくて検査データをもとに診断されるケースが多くなった。五感よりデータ重視となれば、22世紀はロボットが人間の生殺与奪の権を握ってしまうSF社会になってしまうかもしれない。


2016/8/31 水曜日

Filed under: おしらせ — admin @ 18:30:50

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文徳中学・高等学校のことをもっと知りたい と思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第144号

 

          『嫌老より賢老』    学校長 荒木 孝洋

 

 暦の上では間もなく白露、秋の気配が深まり露の量が増える季節、ここ数日、気温も下がり朝夕いくらか凌ぎやすくなった。熱波で火照っていた身も心もホッと一息。当たり前のことだが、人は皆、春夏秋冬、季節が一回りすると齢をひとつ加えていく。私も70回目の秋を迎えることになった。古来より70回目の誕生日は『古希』と呼ばれ、めでたいことだと祝いの席が設けられる。「よくぞここまで生きてこれた」と感慨深くもあるが、「あと何年生きられるのかな?」と不安もよぎる。知人から「古希まで生きるのは、昔は珍しいことだったが、今は古希で亡くなる方が珍しい。いつまでも元気でいて下さい」と励ましの言葉を頂いた。

 とは言え、「高齢者の増加」は国としては大きな課題であり、渦中の年齢としては、キツイと思えるような施策であっても受け入れていかなければと覚悟しているが、先日、ネットでショッキングな漫画を見つけた。題名は「ハローワーカー」、作者は首相官邸にドローン飛ばした人物だそうだ。その内容は少子高齢化に悩む未来の日本。若者の失業対策として「老人駆除法」が施行され、増えすぎた老人を処分する「老人駆除部隊」が結成され若者たちが老人狩りをするのです。ひとりの老人を処分するごとに一万円。高齢者を間引きすることにより、年金、医療費を浮かせて若者たちの出産、育児、教育費に充てるストーリーだ。老人たちも「スーパー老人部隊」を結成し若者たちに対抗します。マンガとはいえ、ブラックユーモアと笑っていられないリアリティさです。現実に、高齢化社会の日本人の4人に1人は65歳以上のお年寄り、これが2060年には人口の40%が年寄となる社会です。作家の五木寛之さんは、著書『嫌老社会を超えて』の中で、このマンガについて「今の社会をどこか反映しているのではないか。人より先に有毒ガスを察知する炭坑のカナリヤみたいに。嫌老社会の入り口に今我々は立っているのではないか」と述べておられる。老人ばかり増え、若者たちがいくら働いてもお年寄りのための年金にばかり使われ、結婚もできない社会では、若者は嫌老になるはずです。株価が上がり円安になっても非正規の若者の生活は向上しないし、GDP600兆円とか希望出生率1.8、介護離職ゼロなんて実現不可能な数値をいくら並べても前には進めない。このまま放っておくと老若の軋轢は深まるばかり。対策を先送りし、気付いたらマンガ「ハローワーカー」の世界では悲しすぎる。

 どうも、マンガ「老人駆除法」の根底には『嫌老』があるようだ。そこで提案だが、「老人よ『賢老』に変身しよう!」。では、どうしたら『賢老』に変身できるのだろうか。作家の童門冬二さんは、『賢老』の秘訣について、『三つのK』が必要だと提案されている。「経済」=(金)、「健康」=(身体)、「希望」=(心)の三つです。さらに、高齢者にとっての人生行路は「起承転結」というより「起承転転」だと。人生の「結」は、今までのような悠々自適な老後と考えるのではなく、新しい生き方への区切りであり、最後まで転がり続ける「転」と認識した方がよいと。89歳の童門さんは、今も元気に執筆や講演活動をされている。また、82歳の作家、五木寛之さんは、著書『下山の思想』の中で、「人生行路は山登りに似ている。青雲の志高く頂上(坂の上の雲)を目指すのが若者であり、老人は辿ってきた道をユックリと振り返りながら下山する。それが賢老の歩みだ」と述べておられる。下山は『頂点を極める』という目標から解放され麓の道を踏みしめながら歩けるから、歩数も違うし見える景色も違う。古希を迎えた今、人生の「来し方・行く末」に思いを馳せながら『転・転・転・・・』と、命が続く限り、若者応援部隊の『賢老』を目指してユックリと歩みを進めていきたい。

2016/7/13 水曜日

法でいじめはなくなるか

Filed under: おしらせ — admin @ 19:03:37

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文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第143号

 

         『法で“いじめ”はなくなるか?』   

                                                                     学校長 荒木 孝洋

 

 いじめ防止対策推進法が制定されて3年が経過した。同法では「いじめを行ってはならない」と定め、「本人がいじめられたと認識した場合は“いじめ”としてカウントする」と書いてあるから、学校では定期的にいじめ調査を行い報告書を作成している。文科省の統計によると、いじめ認知件数は増加傾向にあり、2013年度の18万5800件から翌14年度は18万8072件になった。

 ところが、“いじめ”の認定はそう簡単ではない。相手をからかった生徒が「いじめるつもりはなかった」と弁明しても、いじめられた本人がそう感じる場合は「からかい」を“いじめ”として報告している。しかし、生徒間の暴力を「いじめではなく、けんかだ」と本人たちが主張する場合は“いじめ”としてカウントしない場合がある(もちろんケンカであっても指導はするが)。前者は行為を持って“いじめ”と見なし、後者は動機が“いじめ”と異なると解したことになる。文科省調査では、いじめの様態(行為)を基準にして、からかい、金品隠し、仲間外し、暴力などと分類して報告を求めているから、本人からいじめの申告があれば、行為を基準にして報告することになる。

 国語辞典には、“いじめ”の定義として「弱い立場の人に言葉・暴力・無視・仲間はずれなどにより精神的肉体的苦痛を加えること」と記してある。つまり、動機と行為がごっちゃまぜになっているから“いじめ”か不法行為かの分類に困るのである。行為は分類できたとしても意識や動機は外形からでは判断しづらいことが多く判定が難しい。従って、いじめ防止対策法案は不法行為との並列ではなく、むしろ「弱い立場の人に精神的肉体的苦痛を加えないこと」という意識の啓発に重きを置いた方がふさわしい気がする。熊本でも子育てについて家庭教育十箇条が示されているし、福島県の会津市では会津藩時代から言い伝えられている『什の掟』を現代版に直した指針が示され「ならぬものはならぬ」と締めくくられている。当然、不法行為については厳しい姿勢が求められる。いじめ意識がない場合でも、からかい、仲間外し、金品隠し、暴力、誹謗中傷など、相手を苦しめる行為を一切禁止することが肝要だと考える。つまり、不仲や対立・怨恨・鬱憤晴らし・遊び心など、動機はともかく、相手を苦しめる行為は許されないという姿勢は別な法律で示すべきだと考える。しかも、「いじめを行ってはならない」という言い方では、いじめ意識がなければ、そうした行為もある程度許されるという誤解を生みかねない。

 EU離脱問題では国論を二分したイギリスだが、青少年の育成については国民の意思が統一されており、暗闇にヒントを求めている。夜間の照明時間(営業時間)を制限することで青少年犯罪やいじめが減少したと言われている。ドイツもしかり。随分と以前から土日の店の営業や高速道路運行を制限し、休日は親も子も家庭や教会で過ごすことを推奨している。不夜城のごとく24時間灯りが煌めくことに不自然さを感じない日本国民とは随分と違う。経済成長だけが加速し前に進むことだけを是とする風潮が蔓延すれば、休息や安らぎの場所をなくした青少年たちの心は揺らぐばかり。ラインやSNSで24時間誰かと繋がっていなければ不安に思ってしまう子供たちの世界。啓発と罰則強化で“いじめ”や犯罪をなくそうとする発想には限界がある。追い立てや囲い込みをしばし中断しようではないか。戦国や江戸時代でさえ、為政者は戦乱の最中であっても庶民の安住に目を配り、気配りの政策を忘れなかった。ひとりでじっくり考えたり休息することが素晴らしい人生だと思えるような環境を作っていくのが為政者や大人の責務だ。それが究極の“いじめ防止対策”に思えて仕方がない昨今の日本列島である。

2016/5/23 月曜日

耐震改修促進法の落とし穴

Filed under: おしらせ — admin @ 16:33:44

 

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文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第142号

 

          『耐震改修促進法の落とし穴』    学校長 荒木 孝洋

 

 『耐震改修促進法』という法律がる。この法律に基づいて学校の耐震補強は推進されている。しかし、同じ学校でも、公立と私立では国や県からの助成額が異なるから、同じ工事でも私立学校は手出しが多くなる。さらに、耐震補強が無理と判断された建物は改築(立て直し)しなければ使えない。公立学校は県や市町村の予算で賄われるが、私立学校に対する公的助成は微々たるもので、しかも3年間の時限立法で予算化されたものであり、立て直しに掛かる負担は極めて大きい。

 文徳に着任した平成19年(9年前)、理事長より校舎改修の命が下された。本校の校舎を俯瞰すると、学校が創立された昭和36年に建造された建物で、経年50年、老朽化が相当進んでおり、立ち入り禁止の場所があったり、壁面のセメント剥落や床・窓枠の歪みなど生命を守るには不具合な部分が随所に見受けられた。改修にあたって、耐震補強か改築かについて業者に相談したところ、「耐震補強は可能だが、あくまで建物が崩壊しないための工事であって、壁や天井や床を補強したり取り替えるなら自前でやることになる。つまり、補強した部分の壁面は現状復帰のために塗り替えるが、他の壁面の補修や塗り替えは自前になる。床の補強や窓枠をサッシに変えることも自前になる」といった返答であった。しかも、耐震補強では仕切りや壁が不自然な場所になり使い勝手も悪くなる。当時、改築には公的補助金は出ないから負担は相当重くなるが、生徒の命を守ることが最優先と考え、「50年先まで安心して快適に使える校舎を造る(立て直し)」という結論に達した。校舎・体育館・実習棟など、7年の歳月をかけて平成26年には全てが新しい建物になった。今回の地震によって、熊本市内の学校では、建物の損傷や体育館の壁がはがれ落ちたり鉄製の筋交いが垂れ下がり使用不能に陥っている学校もあると聞く。本校は、震源地から遠かったこともあろうが、校舎と校舎を繋ぐ渡り廊下の継ぎ目や実習棟の天井が一部損傷したものの教室や体育館にはヒビひとつ入らなかった。

 改めて、耐震改修促進法を読み直してみた。この法律には「建物倒壊などの被害から、生命・財産を守ることを目的とする」と書かれているが、「壁面がぽろぽろ落ちたり天井や床が崩落することについては関知しない」とは書いてない。つまり、この法律は人間に例えると加齢を考慮しない治療法と似ている。80才のお年寄りをみんなで支えれば倒れることはないけれど、体自体は80才のまま。若者に比べれば柔軟性も強靱さも雲泥の差があるのに・・・。建物も同じで、いくら筋交いを掛けて耐震補強しても外壁がぼろぼろ落ちることや、天井や床の崩落を防ぐことはできない。文科省の幹部は、今回の熊本地震での体育館の被災状況について「柱や梁などの構造部材が損傷し、倒壊しそうだという被害は聞いていない。筋交いは、衝撃を逃がすために外れたと言える。体育館の建物が倒壊しなかったという意味では、法律の目的を果たしていると言える」とコメントを出しているが、授業中であれば、外れた筋交いや電灯の落下で生徒の生命が損なわれたかもしれない。それでも、文科省は「建物の倒壊を防ぐためには外れる筋交いが必要だ」と主張するのだろうか。熊日新聞に、今回の地震によって、天井滑落やガラスの破損、電灯の落下により使用できくなった体育館が40を越えるとの報道があった。耐震補強してあるから安心だと思っていたが、どうもそうではないことがわかった。つまり、「耐震改修促進法」は、建物倒壊以外の要因で命を落としたり財産を毀損することについては、アンタッチャブルな法律だと理解せねばならぬようだ。

 今なお「今後2ヶ月間は震度6強の地震の恐れがある」との警告が発せられ不安が消えない。現在の科学では地震の予知には限界があり、日本列島の地下に存在するであろう活断層の予測はできても、その動きについては誰も予測できないようだ。科学者と占い師の発言が重なって聞こえる。

2016/5/13 金曜日

試練こそチャンス

Filed under: おしらせ — admin @ 12:01:39

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文徳中学・高 等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第141号

 

          『試練こそチャンス』         学校長 荒木 孝洋

 

 新年度が始まり、一年生は新入生研修が終わったばかりの4月14日、熊本は益城町を震源とする震度7の大地震に襲われた。、さらに16日にも、追い打ちをかけるような本震に見舞われ、益城町や熊本市、阿蘇・宇城地区を中心として家屋や道路が大きく損壊した。倒壊した家屋の下敷きとなり49名の尊い命が失われ、熊本城や阿蘇大橋の崩壊など街全体が見るも無惨な光景となり呆然と立ち尽くすばかりだ。その後、県内外からのボランティアの支援で復興の足がかりはできたものの、今なお不自由な避難生活を余儀なくされている方の心情を思うと胸が張り裂けそうになる。文徳も実習棟の天井破損や校舎の継ぎ目が損壊し、敷地の一部が液状化したが、業者の方の精力的な尽力によって修復され、5月9日に授業を再開することができた。余震の終息が不透明で不安は増幅するが、今までの平穏な日常をリセットし新たな人生を拓くチャンスとなるかもしれない。「辛いけど一歩一歩前に進まなくては!」との想いはすべての被災者に共通する心情だろう。

 ところで、人生の苦悩・試練について、仏教では“逆(さかさ)菩薩”という言葉を使って表現されている。「どんな逆境・不幸な出来事が起こっても、その出来事には必ず学ぶことがあり、その後の幸福に繋がっているはず」と説明されている。同じようなことを美輪明宏さんが話されていたことを思い出した。「石は川下に流れ流されて磨かれ丸くなる。人生も似ている。逆境や苦労、苦悩、試練こそは自分の魂の財宝の道しるべである」といった内容だった。今回の地震もそうだが、人は、何かマイナスなことが起きると、社会が悪い、他人が悪い、環境が悪いなどと責任を他へ転嫁してしまうことがある。しかし、不幸な出来事でも考え方次第で展開は大きく変わる。随分と以前のことだが、教え子のH君を思い出した。彼が2年生の時、父親の突然の死去で学費さえ払えないほどの苦境に落ち入った。アルバイトで母親を手助けする毎日、勉強する時間を削りながらも大学進学の夢だけは捨てなかったようだ。ある時、「勉強は学校でしてしまう」と決心した彼は休み時間と昼休みを全て勉強に充てた。弁当を食べながら教科書を見ている彼をあざ笑う級友もいたようだが、見事難関大学に合格した。後日、彼は「父親が亡くならなければ、あれほど勉強に集中できなかったと思います」と述懐していた。父親の死を逆菩薩にして頑張ったのだろうと思うと、彼が菩薩に見えてしまう。

 試練についてこんな話を聞いたことがある。「もし材木が彫刻家の鑿(のみ)をよければ、いつまでたっっても立派な彫刻にはなれないだろう。それと同じで、人間も試練をよけてばかりいると、いつまでたっても立派な人間になれない。試練という鑿(のみ)で余分な所を削られるからこそ、本当の自分になれるのです。苦しみの中で、思い上がりが削り取られ、謙遜さを深く刻み込まれた人物になってゆくことができるのです」と。すべてが自分の思った通りになれば、結局、自分が思っている程度の人間にしか成れない。今回の震災もそうですが、時々思いがけない試練がやってくるからこそ、私たちは、自分の想像をはるかに超えて成長できるのです。試練の時こそ成長のチャンス。その道を通ることで今よりずっと成長できるなら、それは決して「まわり道」ではありません。失ったものにしがみつかず、与えられたものに感謝して、そこからスタートする。苦しいけど、進んでいくうちに、失ったことにも、与えられたことにも、きちんと意味があったことに気づく日が訪れるはずです。

 幸いに、若い生徒諸君には自分を磨く時間がタップリと与えられている。「君こそ君の応援団 ガンバレ自分」と自分を鼓舞しながら、「でも、やるのは自分だ」と自覚することで、目標に向かうエネルギーが生まれてくるだろう。因みに、ベネッセの集計によると、5年前の東日本震災のとき、東北3県(福島・岩手・宮城)の進学実績は例年を上回ったそうだ。学習時間の不足を集中力で補ったのだろう。授業のスタートが一ヶ月遅れたがまだ間に合う。心意気で試練をチャンスに変えて欲しい。ともにガンバロウ! 

2016/2/23 火曜日

Filed under: おしらせ — admin @ 11:31:09

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文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第140号

『旬』

                           学校長 荒木 孝洋

 若い頃は徹夜も平気だったのに、今では少し無理をすると、何日も疲れが残ってしまう。以前はすんなりと記憶できていたことも、今ではなかなか覚えられなくなり覚えてもすぐ忘れてしまう。一方では、身体に染みこんだ記憶や生活習慣だけはより鮮明になり、他人の仕草が気になってしまう。家の中でも、つい小言になって、家内から「うるさい」「ハイハイ」とあしらわれる。「言わなきゃ良かった」「言い過ぎたかな」と反省しきり。

 そんな時、1月23日の熊日新聞の「生きる」という紙面に掲載されていた「順送り」と題した文章が目に止まった。筆者は医師の有薗祐子さん(57才)という方、「なるほどそうか」と共感しながら何度も読み直した。

 一部紹介します。『・・・母が逝って9年になる。・・・仕事から帰ると、母が不自由な足を引きずりながら、洗濯物を取り込んでいた。「お母さん、何しよっと!危ないたい。もう、せんでよか。かえって・・・」。かろうじて飲み込んだ言葉は、しかし確実に母の胸を刺しただろう。「あんたが少しでも楽なごとと思って・・・」と目を伏せた母に、本当は泣いてすがりたかった。言葉にならない感情をもてあまし、がむしゃらに洗濯物を丸めていた。今はよくわかる。母は与えたかったのだ。/その母は、嫁ぐ直前に亡くした自分の母のことを問わず語らずによく口にした。「編み物をしていると、そばにおっかさんが来てね。黙ってじっと見とっとたいね。嫌だったけど、おっかさんは何かば教えようごたったつかもしれんねえ」と遠い目をして振り返っていた。/大切な人が年をとり、少しずつ弱く小さくなっていく。それでも与えようとする。いとおしくて、不憫で、悲しくて・・・。そんな気持ちを若かった母も抱いたのだろうか。/年齢が追いついて初めて解ける謎がある。祖母も母も辿ってきた道だ、と思いながら同じ道を歩く。今が自分の番なんだねとつぶやいたら、無性に祈りたくなった。/久しぶりに茶碗蒸しを作った。「味付け教えて」と娘が言う。ああ、まだ与えてやれることがある。台所で片付けものをしながら、何だか嬉しい小寒の夜だ』end。

 人は誰でも、年をとるにつれ、それまで難なくできていたことが徐々にできなくなっていく。しかし一方で、齢を重ね、さまざまな経験を積んでいくなかで、分かるようになったり、見えるようになったりするのも増えていく。だから、今になって初めてできることも、たくさん生まれてきているはずである。私の母も90才、歩くのは歩くが日に日に足腰が弱り、同じ話を繰り返すことも多くなった。昔は「その話は聞いた」と途中で話を折っていたが、今は違う。「よっぽど気になっていることだな」と思うと、聞こえ方も、聴き方も変わってきた。

 若いときはそう思えないかもしれないが、できる、できないと一喜一憂することはない。食べ物に旬があるように、人間の人生にも何かを行うのに最適の時期があるのではないか。そうしたその時どきの自分にとっての旬を捉え、今だからできること、今しかできないことを逃さず、それに精一杯取り組んでいくことが大切なのだろう。そこから、それまでできないと思っていたことを可能にする新たな力がわいてくるに違いない。司馬遼太郎は小説「坂の上の雲」の中で青雲の志の大切さを描き、五木寛之は小説「林住期」の中で、山を下った坂の下にユートピアがあると描いている。年齢に応じて心にしみる部分も発する言葉も違うが、若者には前者の生き方が似合うし、歳を重ねると後者の想いが理解できる。

 日本も戦後70年、かっての高度成長は望めない林住期、「成長・成長!」「一億総活躍」と檄を飛ばされても老体にはきつい。心も体も固まってしまう。坂の上の雲を目指して活躍する若者と坂の下からそれを応援する老人たち、それが私にとっての『旬』の姿だ。


2016/1/22 金曜日

入学試験

Filed under: おしらせ — admin @ 17:10:57

   

文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第139号


『入学試験』

                                         学校長 荒木 孝洋

 暦の上では大寒、一年で一番寒い季節を迎えた。各地で大雪の被害も出ているようだが、学校はこの時期が一番忙しい。センター試験を終え大学入試を迎える3年生、新入生を迎える高校入試とてんてこ舞いだ。高校入試の準備をする傍ら国公立受験生の指導、昼食をとる時間もままならない忙しさだ。私学では1月26日に専願生と奨学生の入試が一斉に実施される。文徳高校では1,669名の受験生を迎える。緊張した受験生が安心して受験できるように受験場の点検・整備もほぼ終了した。机・椅子・カーテンの不備はないか?放送設備は大丈夫か?電灯やエアコンは正常か?・・・。

 ところで、試験で一番気を遣うのが入試問題の作成と採点である。答案は受験生と学校を結ぶ唯一の接点だからミスが許されない。先生たちは年間を通して作問に悩まされる。公平を期すためにオリジナルな問題を作成する。中学校の教科書や問題集にも目を通しながら同一問題を避け、難度が適切であるかどうかを何回も何回も検討し調整する。目標平均点も重要な指標である。また、用語の統一にも気を遣う。「・・・せよ」なのか「・・・しなさい」なのか、誤解を招く言葉遣いはないか?、余白や回答欄の大きさは適切か?・・・。しかも、同じ問題を何度も見直していると易しく見えてしまうので難度が上がってしまう。それを避けるために問題作成と校正は担当者を分けて行う。そして、試験が終わりホッとする間もなく次は採点である。得点は合否判定の最重要資料であるから神経をすり減らす作業が続く。答案の名前を厳封し、受験生の名前が見えないようにして採点する。しかも、誤採点を防ぐために、一枚の答案を複数の人間が一見・二見・三見と複数回に亘りチェックする。だから、一枚の答案が得点として集計されるまでに6人の目に触れることになる。各教科10名で採点するとして、二日間で一人平均約1000枚の答案を扱うことになり心身ともにクタクタになる。そして、採点が終わると5教科(国・数・英・社・理)の合計点を算出する、コンピュータに得点を入力しそれをプリントアウトし合否判定資料が出来上がる。いずれの作業も、恣意的感情が入ったり秘密が漏洩しないようにしなければならないから神経をすり減らす過酷な作業である。2月1日が合格発表、当分緊張した日が続くことになりそうだ。

 一方、センター試験はマークシート方式、採点は情報機器による処理だから正確でスピードも速く、羨ましい限りだ。しかし、新たに導入が予定されている大学入学希望者評価テストはマークシート方式に加えて記述式が導入されるから、採点はそう簡単ではない。元来、マークシートは単一解答を想定しているのに対し、記述式は多様な解答を許容する方式だから、整合性のある解答基準の作成が難しく、公平さを担保するのは至難の業だ。現在でも、各大学で記述式の個別試験を実施しているが、枚数が少ないから対応できているようだが、50万人もの答案を、複数の人間で手分けして採点するとなると公平性はいよいよ怪しくなる。大学選抜試験は国家試験のように基準点をクリアーすれば合格となる試験とは異なり、1点刻みで合否が別れる試験である。だから、採点基準が曖昧な記述式はら新テストには馴染まない。

 グローバル化していく社会で、創造力や想像力を持った人材の育成が求められているが、いずれも基礎知識を有することを前提とする。しかし、すべての人間がセオリー通りに育たないのも現実。野菜や果物に早生と晩生があるように、人にも早生と晩生がある。高校生でも早い時期から力を発揮する生徒もいるが、大半は基礎知識の習得で手一杯である。早咲きは放って置いても勝手に育つが、遅咲きに肥料をやり過ぎると枯れてしまう。遅咲き型は、開花が遅いだけで力がないわけではない。鍛えすぎて、求めすぎて隠れた才能を潰しては元も子もない。高校までは基礎をジックリ学ばせ、大学教育の中で「生きる力」を育成しても手遅れにはならないと思う。

2015/12/7 月曜日

ウサギとカメ

Filed under: おしらせ — admin @ 10:10:02

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文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第138号

 

『ウサギとカメ』

                                        学校長 荒木 孝洋

 誰もが一度は聞いたことがある童話『ウサギとカメ』の話、私も小学生の時、学校でその話を聞きました。のろまなカメがウサギに勝つという信じられない話ですが、先生はウサギが負けたことについて「油断大敵」という言葉で締めくくられ、さらに、「なぜカメは勝ち目のない競争をしてウサギに勝ったのか?」、その理由をこう話された。カメは『ウサギはウサギ、自分は自分。ウサギとの競争は考えないで、マイペースでとにかく山の頂上のゴールを目指そう』と考えた。カメの目標は山頂のゴール、目的は自分との戦いに勝つこと、目標を定めて、全力をあげて必ずやり遂げることを繰り返すことで、夢を実現しようとしたのです、という話でした。この話を聞いて、目標を持って生活することの大切さを真剣に考えそれを実行しようと努力したものです。

 私も、教師になってから、この童話を素材にして同じような訓話をしたことが何度かあります。しかし、高校生ともなると、「カメを見習え」と話しても、まったく乗ってこない生徒がいます。カメのような“できすぎ君”に拒絶反応を示す生徒たちです。彼らは教訓をうさん臭いものと感じる素晴らしい感性を持っています。そんな素晴らしい感性を持った彼らのために、「ウサギとカメ」から得た教訓を疑う講話を試みたこともあります。「ウサギとカメ」の話をした後の展開です。

 “目標や目的を自覚することが大切であるという命題は正しいでしょうか?”・・・(沈黙で生徒は静まりかえる)・・・。(しばし時間をおいて)振り返ると、私も教師になってから、部活動でベスト4を目指そうとか、クラス通信を出そう、などとその時々は目標がありましたが、「教師になった動機は?」と聞かれると、「????」。「こんな教師になりたい」といった明確な目標や目的があったわけではありません。ある凄い先生と出会い、「こんな人生を送れたらいいな」と、その先生に憧れてこの道を選びました。昇り階段を探すのに、「あっちがよいか?、こっちがよいか?」と目標に照らし合わせて選ぶのではなくて、凄い人が歩いている階段を選んだ方がワクワクした人生が送れるような予感がしたようなものです。ですから、明確な目標や目的は必要ないと考えていたことになります。でも、ここからが大切です。目標や目的を自覚することが大切であると考えるのか、あるいは必ずしも明確な目標や目的を持つ必要はないと考えるのか、という二者択一から選んで終わりという安易な道を選ばないで欲しいという事を言いたいのです。小学校の時の先生は、なぜカメの生き方のように目標や目的を自覚することが大切だと考えたのか? 次に、なぜ私のように必ずしも明確な目標や目的を持っている必要がないと考えたのか? この二つの『なぜ?』という問いのどちらにも答を見つけて欲しいのです、といった話です。

 テレビを見ていると、「善か悪か? 是か非か?」といった二者択一の選択を迫る番組が闊歩し、人間的曖昧さを許容しない番組が増えています。相手を罵倒したり、「そうか」「そうなの」と頷くばかりの番組はインパクトはあるが残像感がありません。人は誰でもそうですが、同じ問いにも、時には、YESかNOかと揺れ動いたり曖昧なまま結論が出ないことがあります。子どももしかりです。特に、価値意識を形作る若いときには、悪さをしても「親は許さないが、誰かが、どこかで、自立の模索として許している」そういう関係が社会の中には必要です。二者択一の思考は、賛否の片方を排除する価値意識しか育ちません。ウサギにはウサギの、カメにはカメの言い分があるはずです。前提を疑い、二者択一を疑ったうえで、自ら問いを設定し、自ら答えを提案できる人になって欲しいと思っています。その為には「人間の持つ曖昧さを許容する心の広さを持つこと」「正解を教えてもらおうという心の癖を捨て、自らの頭で考える習慣を持つこと」が大切だと考えます。

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