2016/5/13 金曜日

試練こそチャンス

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文徳中学・高 等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第141号

 

          『試練こそチャンス』         学校長 荒木 孝洋

 

 新年度が始まり、一年生は新入生研修が終わったばかりの4月14日、熊本は益城町を震源とする震度7の大地震に襲われた。、さらに16日にも、追い打ちをかけるような本震に見舞われ、益城町や熊本市、阿蘇・宇城地区を中心として家屋や道路が大きく損壊した。倒壊した家屋の下敷きとなり49名の尊い命が失われ、熊本城や阿蘇大橋の崩壊など街全体が見るも無惨な光景となり呆然と立ち尽くすばかりだ。その後、県内外からのボランティアの支援で復興の足がかりはできたものの、今なお不自由な避難生活を余儀なくされている方の心情を思うと胸が張り裂けそうになる。文徳も実習棟の天井破損や校舎の継ぎ目が損壊し、敷地の一部が液状化したが、業者の方の精力的な尽力によって修復され、5月9日に授業を再開することができた。余震の終息が不透明で不安は増幅するが、今までの平穏な日常をリセットし新たな人生を拓くチャンスとなるかもしれない。「辛いけど一歩一歩前に進まなくては!」との想いはすべての被災者に共通する心情だろう。

 ところで、人生の苦悩・試練について、仏教では“逆(さかさ)菩薩”という言葉を使って表現されている。「どんな逆境・不幸な出来事が起こっても、その出来事には必ず学ぶことがあり、その後の幸福に繋がっているはず」と説明されている。同じようなことを美輪明宏さんが話されていたことを思い出した。「石は川下に流れ流されて磨かれ丸くなる。人生も似ている。逆境や苦労、苦悩、試練こそは自分の魂の財宝の道しるべである」といった内容だった。今回の地震もそうだが、人は、何かマイナスなことが起きると、社会が悪い、他人が悪い、環境が悪いなどと責任を他へ転嫁してしまうことがある。しかし、不幸な出来事でも考え方次第で展開は大きく変わる。随分と以前のことだが、教え子のH君を思い出した。彼が2年生の時、父親の突然の死去で学費さえ払えないほどの苦境に落ち入った。アルバイトで母親を手助けする毎日、勉強する時間を削りながらも大学進学の夢だけは捨てなかったようだ。ある時、「勉強は学校でしてしまう」と決心した彼は休み時間と昼休みを全て勉強に充てた。弁当を食べながら教科書を見ている彼をあざ笑う級友もいたようだが、見事難関大学に合格した。後日、彼は「父親が亡くならなければ、あれほど勉強に集中できなかったと思います」と述懐していた。父親の死を逆菩薩にして頑張ったのだろうと思うと、彼が菩薩に見えてしまう。

 試練についてこんな話を聞いたことがある。「もし材木が彫刻家の鑿(のみ)をよければ、いつまでたっっても立派な彫刻にはなれないだろう。それと同じで、人間も試練をよけてばかりいると、いつまでたっても立派な人間になれない。試練という鑿(のみ)で余分な所を削られるからこそ、本当の自分になれるのです。苦しみの中で、思い上がりが削り取られ、謙遜さを深く刻み込まれた人物になってゆくことができるのです」と。すべてが自分の思った通りになれば、結局、自分が思っている程度の人間にしか成れない。今回の震災もそうですが、時々思いがけない試練がやってくるからこそ、私たちは、自分の想像をはるかに超えて成長できるのです。試練の時こそ成長のチャンス。その道を通ることで今よりずっと成長できるなら、それは決して「まわり道」ではありません。失ったものにしがみつかず、与えられたものに感謝して、そこからスタートする。苦しいけど、進んでいくうちに、失ったことにも、与えられたことにも、きちんと意味があったことに気づく日が訪れるはずです。

 幸いに、若い生徒諸君には自分を磨く時間がタップリと与えられている。「君こそ君の応援団 ガンバレ自分」と自分を鼓舞しながら、「でも、やるのは自分だ」と自覚することで、目標に向かうエネルギーが生まれてくるだろう。因みに、ベネッセの集計によると、5年前の東日本震災のとき、東北3県(福島・岩手・宮城)の進学実績は例年を上回ったそうだ。学習時間の不足を集中力で補ったのだろう。授業のスタートが一ヶ月遅れたがまだ間に合う。心意気で試練をチャンスに変えて欲しい。ともにガンバロウ! 

2016/2/23 火曜日

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文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第140号

『旬』

                           学校長 荒木 孝洋

 若い頃は徹夜も平気だったのに、今では少し無理をすると、何日も疲れが残ってしまう。以前はすんなりと記憶できていたことも、今ではなかなか覚えられなくなり覚えてもすぐ忘れてしまう。一方では、身体に染みこんだ記憶や生活習慣だけはより鮮明になり、他人の仕草が気になってしまう。家の中でも、つい小言になって、家内から「うるさい」「ハイハイ」とあしらわれる。「言わなきゃ良かった」「言い過ぎたかな」と反省しきり。

 そんな時、1月23日の熊日新聞の「生きる」という紙面に掲載されていた「順送り」と題した文章が目に止まった。筆者は医師の有薗祐子さん(57才)という方、「なるほどそうか」と共感しながら何度も読み直した。

 一部紹介します。『・・・母が逝って9年になる。・・・仕事から帰ると、母が不自由な足を引きずりながら、洗濯物を取り込んでいた。「お母さん、何しよっと!危ないたい。もう、せんでよか。かえって・・・」。かろうじて飲み込んだ言葉は、しかし確実に母の胸を刺しただろう。「あんたが少しでも楽なごとと思って・・・」と目を伏せた母に、本当は泣いてすがりたかった。言葉にならない感情をもてあまし、がむしゃらに洗濯物を丸めていた。今はよくわかる。母は与えたかったのだ。/その母は、嫁ぐ直前に亡くした自分の母のことを問わず語らずによく口にした。「編み物をしていると、そばにおっかさんが来てね。黙ってじっと見とっとたいね。嫌だったけど、おっかさんは何かば教えようごたったつかもしれんねえ」と遠い目をして振り返っていた。/大切な人が年をとり、少しずつ弱く小さくなっていく。それでも与えようとする。いとおしくて、不憫で、悲しくて・・・。そんな気持ちを若かった母も抱いたのだろうか。/年齢が追いついて初めて解ける謎がある。祖母も母も辿ってきた道だ、と思いながら同じ道を歩く。今が自分の番なんだねとつぶやいたら、無性に祈りたくなった。/久しぶりに茶碗蒸しを作った。「味付け教えて」と娘が言う。ああ、まだ与えてやれることがある。台所で片付けものをしながら、何だか嬉しい小寒の夜だ』end。

 人は誰でも、年をとるにつれ、それまで難なくできていたことが徐々にできなくなっていく。しかし一方で、齢を重ね、さまざまな経験を積んでいくなかで、分かるようになったり、見えるようになったりするのも増えていく。だから、今になって初めてできることも、たくさん生まれてきているはずである。私の母も90才、歩くのは歩くが日に日に足腰が弱り、同じ話を繰り返すことも多くなった。昔は「その話は聞いた」と途中で話を折っていたが、今は違う。「よっぽど気になっていることだな」と思うと、聞こえ方も、聴き方も変わってきた。

 若いときはそう思えないかもしれないが、できる、できないと一喜一憂することはない。食べ物に旬があるように、人間の人生にも何かを行うのに最適の時期があるのではないか。そうしたその時どきの自分にとっての旬を捉え、今だからできること、今しかできないことを逃さず、それに精一杯取り組んでいくことが大切なのだろう。そこから、それまでできないと思っていたことを可能にする新たな力がわいてくるに違いない。司馬遼太郎は小説「坂の上の雲」の中で青雲の志の大切さを描き、五木寛之は小説「林住期」の中で、山を下った坂の下にユートピアがあると描いている。年齢に応じて心にしみる部分も発する言葉も違うが、若者には前者の生き方が似合うし、歳を重ねると後者の想いが理解できる。

 日本も戦後70年、かっての高度成長は望めない林住期、「成長・成長!」「一億総活躍」と檄を飛ばされても老体にはきつい。心も体も固まってしまう。坂の上の雲を目指して活躍する若者と坂の下からそれを応援する老人たち、それが私にとっての『旬』の姿だ。


2016/1/22 金曜日

入学試験

Filed under: おしらせ — admin @ 17:10:57

   

文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第139号


『入学試験』

                                         学校長 荒木 孝洋

 暦の上では大寒、一年で一番寒い季節を迎えた。各地で大雪の被害も出ているようだが、学校はこの時期が一番忙しい。センター試験を終え大学入試を迎える3年生、新入生を迎える高校入試とてんてこ舞いだ。高校入試の準備をする傍ら国公立受験生の指導、昼食をとる時間もままならない忙しさだ。私学では1月26日に専願生と奨学生の入試が一斉に実施される。文徳高校では1,669名の受験生を迎える。緊張した受験生が安心して受験できるように受験場の点検・整備もほぼ終了した。机・椅子・カーテンの不備はないか?放送設備は大丈夫か?電灯やエアコンは正常か?・・・。

 ところで、試験で一番気を遣うのが入試問題の作成と採点である。答案は受験生と学校を結ぶ唯一の接点だからミスが許されない。先生たちは年間を通して作問に悩まされる。公平を期すためにオリジナルな問題を作成する。中学校の教科書や問題集にも目を通しながら同一問題を避け、難度が適切であるかどうかを何回も何回も検討し調整する。目標平均点も重要な指標である。また、用語の統一にも気を遣う。「・・・せよ」なのか「・・・しなさい」なのか、誤解を招く言葉遣いはないか?、余白や回答欄の大きさは適切か?・・・。しかも、同じ問題を何度も見直していると易しく見えてしまうので難度が上がってしまう。それを避けるために問題作成と校正は担当者を分けて行う。そして、試験が終わりホッとする間もなく次は採点である。得点は合否判定の最重要資料であるから神経をすり減らす作業が続く。答案の名前を厳封し、受験生の名前が見えないようにして採点する。しかも、誤採点を防ぐために、一枚の答案を複数の人間が一見・二見・三見と複数回に亘りチェックする。だから、一枚の答案が得点として集計されるまでに6人の目に触れることになる。各教科10名で採点するとして、二日間で一人平均約1000枚の答案を扱うことになり心身ともにクタクタになる。そして、採点が終わると5教科(国・数・英・社・理)の合計点を算出する、コンピュータに得点を入力しそれをプリントアウトし合否判定資料が出来上がる。いずれの作業も、恣意的感情が入ったり秘密が漏洩しないようにしなければならないから神経をすり減らす過酷な作業である。2月1日が合格発表、当分緊張した日が続くことになりそうだ。

 一方、センター試験はマークシート方式、採点は情報機器による処理だから正確でスピードも速く、羨ましい限りだ。しかし、新たに導入が予定されている大学入学希望者評価テストはマークシート方式に加えて記述式が導入されるから、採点はそう簡単ではない。元来、マークシートは単一解答を想定しているのに対し、記述式は多様な解答を許容する方式だから、整合性のある解答基準の作成が難しく、公平さを担保するのは至難の業だ。現在でも、各大学で記述式の個別試験を実施しているが、枚数が少ないから対応できているようだが、50万人もの答案を、複数の人間で手分けして採点するとなると公平性はいよいよ怪しくなる。大学選抜試験は国家試験のように基準点をクリアーすれば合格となる試験とは異なり、1点刻みで合否が別れる試験である。だから、採点基準が曖昧な記述式はら新テストには馴染まない。

 グローバル化していく社会で、創造力や想像力を持った人材の育成が求められているが、いずれも基礎知識を有することを前提とする。しかし、すべての人間がセオリー通りに育たないのも現実。野菜や果物に早生と晩生があるように、人にも早生と晩生がある。高校生でも早い時期から力を発揮する生徒もいるが、大半は基礎知識の習得で手一杯である。早咲きは放って置いても勝手に育つが、遅咲きに肥料をやり過ぎると枯れてしまう。遅咲き型は、開花が遅いだけで力がないわけではない。鍛えすぎて、求めすぎて隠れた才能を潰しては元も子もない。高校までは基礎をジックリ学ばせ、大学教育の中で「生きる力」を育成しても手遅れにはならないと思う。

2015/12/7 月曜日

ウサギとカメ

Filed under: おしらせ — admin @ 10:10:02

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文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第138号

 

『ウサギとカメ』

                                        学校長 荒木 孝洋

 誰もが一度は聞いたことがある童話『ウサギとカメ』の話、私も小学生の時、学校でその話を聞きました。のろまなカメがウサギに勝つという信じられない話ですが、先生はウサギが負けたことについて「油断大敵」という言葉で締めくくられ、さらに、「なぜカメは勝ち目のない競争をしてウサギに勝ったのか?」、その理由をこう話された。カメは『ウサギはウサギ、自分は自分。ウサギとの競争は考えないで、マイペースでとにかく山の頂上のゴールを目指そう』と考えた。カメの目標は山頂のゴール、目的は自分との戦いに勝つこと、目標を定めて、全力をあげて必ずやり遂げることを繰り返すことで、夢を実現しようとしたのです、という話でした。この話を聞いて、目標を持って生活することの大切さを真剣に考えそれを実行しようと努力したものです。

 私も、教師になってから、この童話を素材にして同じような訓話をしたことが何度かあります。しかし、高校生ともなると、「カメを見習え」と話しても、まったく乗ってこない生徒がいます。カメのような“できすぎ君”に拒絶反応を示す生徒たちです。彼らは教訓をうさん臭いものと感じる素晴らしい感性を持っています。そんな素晴らしい感性を持った彼らのために、「ウサギとカメ」から得た教訓を疑う講話を試みたこともあります。「ウサギとカメ」の話をした後の展開です。

 “目標や目的を自覚することが大切であるという命題は正しいでしょうか?”・・・(沈黙で生徒は静まりかえる)・・・。(しばし時間をおいて)振り返ると、私も教師になってから、部活動でベスト4を目指そうとか、クラス通信を出そう、などとその時々は目標がありましたが、「教師になった動機は?」と聞かれると、「????」。「こんな教師になりたい」といった明確な目標や目的があったわけではありません。ある凄い先生と出会い、「こんな人生を送れたらいいな」と、その先生に憧れてこの道を選びました。昇り階段を探すのに、「あっちがよいか?、こっちがよいか?」と目標に照らし合わせて選ぶのではなくて、凄い人が歩いている階段を選んだ方がワクワクした人生が送れるような予感がしたようなものです。ですから、明確な目標や目的は必要ないと考えていたことになります。でも、ここからが大切です。目標や目的を自覚することが大切であると考えるのか、あるいは必ずしも明確な目標や目的を持つ必要はないと考えるのか、という二者択一から選んで終わりという安易な道を選ばないで欲しいという事を言いたいのです。小学校の時の先生は、なぜカメの生き方のように目標や目的を自覚することが大切だと考えたのか? 次に、なぜ私のように必ずしも明確な目標や目的を持っている必要がないと考えたのか? この二つの『なぜ?』という問いのどちらにも答を見つけて欲しいのです、といった話です。

 テレビを見ていると、「善か悪か? 是か非か?」といった二者択一の選択を迫る番組が闊歩し、人間的曖昧さを許容しない番組が増えています。相手を罵倒したり、「そうか」「そうなの」と頷くばかりの番組はインパクトはあるが残像感がありません。人は誰でもそうですが、同じ問いにも、時には、YESかNOかと揺れ動いたり曖昧なまま結論が出ないことがあります。子どももしかりです。特に、価値意識を形作る若いときには、悪さをしても「親は許さないが、誰かが、どこかで、自立の模索として許している」そういう関係が社会の中には必要です。二者択一の思考は、賛否の片方を排除する価値意識しか育ちません。ウサギにはウサギの、カメにはカメの言い分があるはずです。前提を疑い、二者択一を疑ったうえで、自ら問いを設定し、自ら答えを提案できる人になって欲しいと思っています。その為には「人間の持つ曖昧さを許容する心の広さを持つこと」「正解を教えてもらおうという心の癖を捨て、自らの頭で考える習慣を持つこと」が大切だと考えます。

2015/11/24 火曜日

名著を紐解く

Filed under: おしらせ — admin @ 7:50:59

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文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第137号

 

『名著を紐解く』

                                                学校長 荒木 孝洋

 “人間は『人から学ぶ』『本から学ぶ』『旅から学ぶ』以外に学ぶ方法を持たない動物である”という言葉を聞いたことがある。「なるほど」と合点である。私自身も振り返ると、教師になったのは凄い先生と出会って「こんな人生を歩みたい」と思ったのがきっかけだし、タイの学校を訪問して子どもたちの真剣な眼差しに「日本人は大丈夫かな?」っとドキッとしたこともある。しかし、人や旅よりも『本から学ぶ』機会が一番多かったような気がする。一生の間に会える人物は限られているし、旅もしばしば出来るわけではない。アメリカに渡ってもオバマ大統領に会える確率は限りなくゼロに近いし、すでに亡くなっている歴史上の人物に会うことは不可能である。しかし、読書は違う。旅行に比べれば本の値段は安価で、何時でも何処でも読める。本屋に行けば読みたい本が即座に購入でき、図書館で借りることもできる。しかも、読めば読むほど思考が広がり考えが深まる。同じ文章でも読み返すたびに自分の至らなさに気づかさせられることもシバシバ。是非、若い人たちにはたくさんの本を読んで欲しいと願っている。今年のノーベル物理学賞を受賞した東京大宇宙線研究所長の梶田隆章さんは、子どものころから大の本好きだったそうで、母親が「目が悪くなるから、少し休んだら」と注意しても、隠れて読んでいたそうだ。

 ところが、現実は活字離れが深刻になっている。街を歩いている人も、駅の待合室も、バスの中もスマホを見つめる人ばかり。本を読んでいる人をほとんど見かけない。全国大学生協連の調査では、大学生の40.5%が読書にあてる時間はゼロと答えている。しかも、ゼロと答えた学生のスマートフォン利用時間は1日平均3時間と最も長いそうだ。これは若者に限った現象ではない。文化庁の国語世論調査によると、「一ヶ月に全く本を読まない人」が47.5%、「読書量が減っている」という人が65.1%。もちろん、スマホで本も読めるだろうが、日本人全体で読書離れが加速しているようだ。その理由は「仕事や勉強が忙しく時間がない」に次いで、「視力などの健康上の問題」が2番目に多かったそうだ。読書にはある程度の時間的余裕と体力が必要ということであり、やはり、体力・気力とも充実している若いときこそ多くの本が読める絶好のチャンスだということになる。

 一方、スマホの普及で情報伝達が速くなり、利便性は大きく向上したが、失うものも多い気がする。そのひとつが、結論や答を急ぐことだ。複雑な要素が絡んで無数の選択肢があるはずの難題も、「YESかNOか」「是か非か」といった二者択一の選択を求めたり、誰かが作った結論に付和雷同する傾向が強まっている気がする。確かに、結論を先行させれば時間や労力は省けるだろうが、思考はそこで停止し、他の意見の存在にも気づかず、他者への寛容の心も生まれにくい。グローバル化した現代では、情報に素早くアクセスしたり、それを処理する能力が求められるのは仕方がないにしても、スマホやネットの断片的な情報は体系的に物事を理解したり、大きな文脈で考えたりするのには向いていない。結論が明白のように思える案件でも、違う考え方や立場があり、より正しい結論に達するためには、広く判断材料を集めたり、自分の脳でジックリ考える時間を持つことがもっとも大切だ。

 まもなく、選挙年令が18才に引き下げられ、若者の意見が政治にも反映される社会が到来する。広い視野と豊かな想像力を持って未来を切り拓いて欲しい。そのためには訓練がいる。運動神経がよほど優れていたとしても、全く練習しないでテニスや水泳が上手になるはずがない。同じように、人間の脳も習練を積まなければ賢くはならない。スポーツも芸事も、名人に教えを受ければ上達が早い。同様に思考力を高めるには、古今東西の名著を紐解くことが一番であろう。

2015/10/28 水曜日

真逆の教育改革(続々)〜眩い星空〜

Filed under: おしらせ — admin @ 13:04:00

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文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第136号


『真逆の教育改革(続々)〜眩い星空〜』

                                                                                                   学校長 荒木 孝洋

 朝夕の寒暖の差は大きいが、さわやかな秋空が続き、夜には遠い彼方の星空に身も心も癒される。我々は、山にいても、海辺にいても、また、都会にいても、目に映る星座の姿に大きな違いを感じない。ところが、我々が立っている足元は草地であったり、砂浜であったり、アスファルトだったりと、条件がさまざまに異なる。地面の状態が異なれば、それぞれに適した靴や歩き方がある。砂地に下駄では歩きにくいし、山道をサンダルで歩けば危険である。アスファルトを裸足で歩くわけにはいかない。もちろん、大人と子供では歩幅も違うし、登りと下りでは足に掛かる負荷も場所が異なる。

 このことは、学校経営にも当てはまる。学校が、心理的にも地理的にも遠くにある国の方針や先進事例ばかりに目を奪われてしまうと、学校が置かれている地域や実情をつい見過ごし、大事な問題を見逃しかねない。例えば、学力やスポーツ競技での入賞数などが取り上げられるとき、学校や教師の努力だけが評価されがちだが、そもそも成果の背景には地域性とか家庭環境、本人の能力や意欲などのさまざまな要素がある。教育の成果は教師の努力もさることながら、子供の努力、保護者や住民の努力などの総合力でしかない。学力が高いとされる自治体や学校では、子供の家庭学習時間が長く、人とのつながりも濃いと言われている。そんな先進モデル校には遠方からの視察者も多いが、残念ながら、訪れた視察者は授業方法ばかりに目を奪われ、自校で同じことを実践しても改善に繋がらないことが多い。置かれた地域や学校の実態を聴聞したり観察するのも視察の大事な視点なのに・・・空ばかり見てると転んでしまう。

 そもそも、同じことを同じ方法で行っても差がつくのが教育。脚本家の山田太一さんは『夕暮れの時間に』という著書の中で、「知力・体力とも人それぞれに限界がある。そうした宿命を背負っているからこそ人生は味わい深い。全員が同じラインから一斉に駆けだすような今の競争社会は、ちょっと信じられないくらい非現実的で、あまりに無残です」と述べておられる。最近の教育改革もしかり。教育再生会議から矢継ぎ早に改革が提言されるが、教育はものづくりと違って対象は生きものの生徒だから、新しい施策が提言されても『よーいドン』とは進められないのが学校の足下。地域によってその対応には温度差があり一律に一斉に全てが実施できることばかりではない。例えば、児童生徒が数人しかいない山村での英語教育、指導者を捜すのも難題だし、意欲ある生徒だったとしても、外国人が日常的に闊歩している大都会と同じようにオーラルコミュニケーション能力が高まるとは思えない。元来、生きていくための基礎・基本をジックリ学ぶのが初等・中等教育。学力が高いと言われるフィンランドでは、教育の専門家で構成されるプロ集団が時間をかけてカリキュラムを検討し、その運用は地方に任せていると聞く。「今の子供はなっていない。ゆとり教育のせいだ。詰め込み教育で教育再生を」といった具合に、場当たり的な教育行政の日本とは随分と違うようだ。

 私の48年の教職経験を通してのことだが・・・一定の教育成果を上げている学校の共通点は、自前の教育を行っている学校、つまり、自校が立つ足元を確実に見つめ、実態に即した教育を行っているということだ。足下に適した靴と歩き方で前進し、それがしっかりと地元にフィットしていれば、その成果は持続する。空から見ると、カメのように遅々たる前進にしか見えないかもしれないが、こんな教育活動の展開こそあるべき学校経営の要諦だと確信している。星空に映し出される国の指針は東京一極集中で眩いばかり。教育格差をなくすのが文科省の役割。煽るばかりの提言では地方も日本丸も沈んでしまう。競争は両刃の剣、「日本丸、そんなに急いでどこへ行く?」。地方と都会のタイムラグを許容する改革こそ「地方創生」のキーワードだと考える。

2015/10/14 水曜日

〜続〜真逆の教育改革

Filed under: おしらせ — admin @ 9:30:05

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文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第135号

 

『〜続〜真逆の教育改革』

                                  学校長 荒木 孝洋

 開校して55年目を迎えましたが、世間の人が「文徳高校をどんなイメージで見ておられるのか?」時折気にしながら日々の教育活動を振り返っています。文徳高校には、難関大学を目指して学力向上に努める生徒がいる一方で、運動能力を鍛えて全国大会で優勝を目指す生徒もいます。ごく普通に青春を思う存分楽しみたい生徒がいてもよいと思っています。そんな意味で本校は総合高校です。校訓の「体・徳・智を磨く」を具現化するために『あ・た・まを磨く』という標語を掲げています。『あ』は明るい挨拶ができる・温かい言葉がある。『た』は確かな学力と逞しい身体を育む。『ま』は真っ直ぐな心で前向きに行動する、ということです。自己の能力を磨き、自分の都合だけでものごとを判断しないよう学びを極め、磨いた能力を世のために役立てる。そのためにも多種多様な個性を備えた生徒がいたほうが、学びは進化すると考えています。

 ところで、社会を支える人材を送り出すことが我々教職員の役割です。そこで生徒たちには「情を磨く」よう教えています。相手の気持ちを的確に掴み、会話の余白を読み取れる能力は、社会で生きていくために最も必要とされる資質だと思うからです。そのために、本校では、名称は一定していませんが、平均すると月に一回、講話を聴いたり文化的行事をとりいれ、その都度必ず感想文を書きます。授業や部活動などの日常から離れ、自分自身や身の回りを振り返る習慣を養うためです。また、生徒指導では形を大切にし、指導の三原則として『挨拶』『掃除の徹底』『時間を守る』を掲げています。あいさつのできない子に情を磨く話は通じません。掃除をしない子に社会を支えてくれと言っても伝わらないでしょう。時間を守れない子が相手を大切にしているとは思えません。能力や好き嫌いの問題ではなく、すべての生徒に身につけてもらいたい大切な習慣だと思っています。さらに、学習面で身につけるべき形は『自習力』だと思います。どんなことに対しても、まず自分の頭で考える。そんな姿勢を高校時代に自分のものにして欲しいと思っています。本校では『進度より深度』を指導指針として授業を行っています。「YESかNOかで終わり」「正解したら終わり」という安易な道を選ばず、異なる意見や主張であっても、相手の主張に耳を傾け、その意見を自らの頭で咀嚼し、その後、自らの答や別解を提案できる人になって欲しいと思っています。

 因みに、我々が担うのは中等教育です。人生の骨格を育むべき重要な時期に、グローバル化やキャリア教育を持ち込む昨今の風潮を危惧しています。こうした動きの背景には、教育に対する産業界、経済界からの強い要請が透けて見えます。しかしながら、中等教育の場では、こうした外野からの声には、あえて耳を塞ぐべきだと考えます。例えば、英語教育、ネイティブに比較して中途半端な英語しか話せない若者が、底の浅い学びしか経験しないとすれば、日本人の知的生産力は確実に落ちていくでしょう。気づいたときは手遅れです。中等教育で必要なのは、実用性一辺倒の学びなどではありません。求められるのは、長い人生をがっちり支える骨太の知力・学力・人間力を養うことです。英語力もITスキルも長けているに越したことはないが、高校教育の柱ではありません。むしろ、基礎基本の知識や『自習力』を涵養し、判断力や決断力・想像力を養うことが肝要だと考えます。

 一方、大学の状況も危機的です。「一億総活躍社会」とはほど遠い提言が目白押し、学費は上がり、地方の大学では定員減ラッシュ、貧乏人は益々学問から遠ざかる。しかも、大学改革は偏った提言が多く、例えば、産学連携のもと企業論理が優先し、哲学・宗教学・倫理学などの人文科学系が軒並みに軽視され国の支援は細る一方。また、日本では哲学が廃れる一方なのに、フランスやイギリスではもっとも優秀な生徒が哲学に進むと聞く。本来、国の根幹を支える礎となるのはこのような人材ではないでしょうか。学生は理系か文系かに軸足を置くとしても、文理を問わず広く学べるのが大学の優位性。資格取得や実学優先の学習なら専門学校で十分。大学は世間から超然とした存在であって欲しい。「就職や資格と無縁の学部・学科の学生が威張れる大学こそ一流大学だ」と世間が認識するようになれば日本丸も安泰でしょう。拙速な大学改革を憂うのは私だけではなさそうです。

 

2015/9/28 月曜日

真逆の教育改革

Filed under: おしらせ — admin @ 11:13:03

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文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第134号

                                                      

                                    『真逆の教育改革』


                                      学校長 荒木 孝洋


 記録的な猛暑がやっと終わったと思ったら、今度は茨城・栃木・宮城の豪雨、川の堤防が決壊し大規模な洪水被害が発生した。近年になって、これまで経験したことのないような規模の災害がこうも立て続けに発生すると、やはり地球規模の大きな変化が起きているのではないかと思わざるを得ない。一方、国会では反対のデモが渦巻く中、集団的自衛権を容認する安全保障法案が承認された。私は昭和21年生まれだから、終戦以来ずーっと平和な日本の歴史と同じ歩みをしてきただけに今回の法案には一抹の不安を憶える。平和という大河が法案施行によって決壊しなければよいがと思うのは私一人ではなさそうだ。


 ところで、教育界にも大洪水の兆しがある。マスコミはほとんど取り上げないが、学習指導要領の改訂、大学入試改革など2020年を「ターゲットイヤー」とする大改革が着々と進行している。果たして教育界は、どのような形で20年の東京五輪・パラリンピックを迎えることになるのだろうか?。今回提示されている教育再生計画(教育は一度も死んだことはないのに再生とはなんぞや?私のもっとも嫌いな表現だが・・・)について下村文部科学大臣は「明治以来の大改革」と述べている。話の趣旨は「どれだけ知識を習得したかという教育から、習得した知識をどう活用するかという教育への転換」、そのために「指導要領を変える、授業もティーチングからアクティブ・ラーニングへ転換する、知識・技能を問うような入学試験を改訂する」である。具体的には、「現代歴史」「公共」の新科目の創設とセンター試験廃止に伴う新テストの複数回実施が提起されている。趣旨には賛成だが、膨らむばかりの提言に困惑している。学校では、意欲も学力も異なる生徒に対して、限られた時間の中で、英語や国語・数学などの教科の学力向上に努め、場合によっては、不足する部分を早朝や放課後の補講で補っている。さらには、国際化、情報化といったキーワードで指導内容も膨らむ一方、交通マナーの指導、スマホの指導、薬物濫用防止啓発、いじめ撲滅の人権教育・・・土・日は部活動の指導もある。それでも、愚痴も言わずに教師は頑張っている。子どもの悩みやニーズに応えながら必死の支援活動である。まじめな教師は「さらに、何を頑張ればよいのですか?」と問いかけるだろうし、「もう頑張れません」と消えゆく教師も増えていると聞く。人材枯渇も心配になる。行政の方々は学校の実情をご存じなのだろうか?


 そもそも教育は国家百年の計と言われるが、その目的は子どもに「生きる力」を養うことにつきる。「生きる力」とは「これからの世の中を生きていくために必要なスキルは何か、どうすればそれを身につけることができるかを自分で考え実行していく力」だ。誰かに「これが必要だよ」とインストールしてもらうような教育では、本当の「生きる力」は育まれない。ITリテラシー、プレゼンテーション能力などを、スマホのアプリのように「パッケージ化されたスキル」にして、それを子どもに与えることばかり議論しているようでは、教育の本義からそれてしまう。元来、子どもは普通に各教科を学ぶ過程で様々な思考や表現を経験し、トライ・アンド・エラーを繰り返しながら知識と知恵を身につけ、「生きる力」を獲得していく。子供の学力差や成長に早遅はあっても、学ぶ意欲は均等だ。チャレンジ・アンド・エラー、この姿こそアクティブ・ラーニングそのものだと考える。


 大学入試改革もしかり、センター試験は一点刻みの知育偏重入試だということで、新テストの導入が提起されているが、運用の問題であって、「教科の枠を越えた出題」とか「記述式の問題」「外部試験の活用」への変更であり、洗練された出題のセンター試験とはほど遠い提言だ。高校でも慎重論が多い。また、AO入試・推薦入試などの多様な選抜試験を推奨しているが、すでに、一部の私大では青田買いとも思えるAO入試が跋扈しており、5月のオープンキャンパスに参加しただけで「合格確約証」を発行する大学もある。学力に不安のある生徒は学習を放棄して入学を確約する。提言が実施されると、年に複数回新テストが実施され、AO入試が拡大し、通年入試が罷り通ることになる。ジックリ学ぶ時期を保証するのが高校教育の神髄。キャリア教育とかアクティブ・ラーニングとは真逆の光景が2020年の高校現場となっているのでは・・・。杞憂であることを願っている。


2015/6/4 木曜日

四者悟入(ししゃごにゅう)

Filed under: おしらせ — admin @ 9:33:02

    

 

文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第133号

            『四者悟入(ししゃごにゅう)』

                                                学校長 荒木 孝洋

 県の高校総体・総文が終わった。毎年の光景だが、全国や九州大会の切符を手にして歓喜乱舞する生徒がいる一方で、目標に届かず悔し涙を流した生徒も多かっただろう。結果はともあれ、流した汗はすぐに乾くが、流した涙は一生の宝物になる、と確信する。全力を尽くした文徳生を褒めてやりたい。特に、3年生は高校生活最後のイベントが終焉し、いよいよ自らの進路実現に向けた新たな戦いが始まる。ボールをペンに握り替え、『夢実現』に向けて自らの腕を磨いて欲しい。

 ところで、こんな笑い話がある。全身が痛いという男がいた。頭を触れば頭が痛い。腕を触れば腕が痛い。そう訴える男に向かって医者は言った。『あなたの身体はどこも悪くない。ただ指が折れているだけなんだ』。・・・結果が思い通りにならないと、ついつい、あそこが悪い、ここが悪いと、我々凡人は嘆くことしきりである。そんな悲劇の主人公気取りの自分を突き放して遠くから眺めれば、「どこも、誰も悪くない。ただ、あなたの腕が悪い。あなたの心が折れているだけだ」という医師の診断を受けることになるだろう。反省とは磨く腕を探す作業である。職種によって磨く腕は異なるが、我々教師は授業力という腕を磨かねばならない。医師は手術の腕前で、落語家は話術で、裁判官は順法精神で勝負するように、教師は授業で勝負をする仕事である。本校には、授業について、教師が実践しなければならない共通な努力目標がある。(  )内はその効果。具体的には・・・

ー業が整然としている(その先生が言うことだから間違いないはずと生徒は先生を信頼する)

⊆業に迫力がある(生活面での指導にも生徒が素直に耳を傾けるようになる)

授業が大きな声でなされる(生徒もある程度の声を出さざるを得ない)

ぜ業の中で人権への十分な配慮がなされている(生徒の正しい人権感覚が身につく)

ゼ業が分かりやすい(生徒は学校が楽しくなり欠席が減る)

授業が楽しい(学習意欲が高まり、もっと難しいことを学びたくなる)。

 私は22才で教師になったが、最初に赴任した学校のN校長先生から次のような訓辞を戴いた。「荒木先生は数学の先生だから四捨五入は知っているでしょう。四捨五入のできる先生になって下さい」と。意味不明で頭をかしげていると、校長先生は黒板に『四者悟入』と書き次の話をされた。「教師は4つの道でプロになりなさい。その4つとは、学者(専門の知識を磨きなさい)、役者(教壇は舞台だ。生徒がわかる授業をしなさい)、易者(子どもの適性や能力を見極め将来の進路を拓いてやれる教師になりなさい)、医者(子どもは多種多様、心の悩みに気づく教師になりなさい)。これができて始めて悟りに入れる(教師として一人前になれる)」と。以来、ずーっとこの言葉を心に刻み精進してきたつもりだが、46年の教師生活を振り返ると、『難題』への答えは今も出ていない。死ぬまで『悟入』は難しそうだ。昔の生徒のことを思い出すと「スマナイ」と思うことばかりで忸怩たる気持ちである。N校長先生は数年前になく亡くなられたが、ご存命なら「まだまだ、腕の磨きかたが足りない」との診断を下されることだろう。

 ところで、最近の矢継ぎ早な教育改革の提言に戸惑っている。小学校への英語導入、センター入試の改革、道徳教育の教科化、グローバル人材の育成、アクティブ・ラーニング、教員免許の国家試験化・・・。「総合的な学習の時間」もやっと根付いたのに、アクティブ・ラーニイングへの転換、「折れてもいない骨が折れている」と診断されるようなものだ。主幹教諭の新設は教科指導のエキスパートをスポイルするばかり。現場を知らない人たちの処方箋には疑問を感じる提言が多すぎる。課題が指摘されると「そうならないように努力します」ではすまないのが教育だ。国会では相変わらず、与野党の噛み合わない議論と非難・中傷合戦や居眠り、「日本は大丈夫かな?」と切なくなる。国家試験が必要なのは教員免許ではなく、政治免許ではなかろうか。その要件は、『専門的な知識』と『説明力』そして『日本の未来を占う想像力』『庶民の幸せを創造する企画力』の『四者』である。

2015/5/7 木曜日

知的好奇心

Filed under: おしらせ — admin @ 12:42:09

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文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第132号

 

                『知的好奇心』

                                             学校長 荒木 孝洋

 文徳の4月は慌ただしい。入学式(4月9日)、新入生研修(4月13日〜4月15日)、体育大会(4月29日)と、新入生は息をつく暇もない。連休が開け、やっと落ち着いた文徳での新学期がスタートしたようだ。

 ところで、「小人閑居して不善を為す」という言葉がある。つまらない人間はあまり暇だと、ろくな事はしないという意味である。言い得て妙、古人の洞察力には驚かされる。若い人たちにはピンとこないかもしれないが、そもそも、人生に於ける最大の敵は「退屈」である。人生とは「退屈」との戦いと言えなくもない。従って、生きること自体に「退屈」を感じ始めたら事態は深刻である。

 『種の起源』を著したイギリスの博物学者ダーウィンは、青年期に動物学の研究員として軍艦ビーグル号に乗り組み、1831年からの5年間にわたる南米及び太平洋の調査航海に出た。その間の事情を書にしたのが『ビーグル号航海記』である。その中で、リオデジャネイロでの彼自身の体験について「この地方の豊穣な風土では、生物は到る所に充満していて、目を引くものに限りがなく、ほとんど歩くこともできない」と記している。つまり、ダーウィンは未知なる新大陸において、前に進むのも躊躇するほど興味深く感じられる事物に囲まれていたことになる。しかし、「その時」「その場所」には他にも多くの人がいたはずである。にもかかわらず、その瞬間を「至福のとき」と捉えることのできる人が存在する一方で、「退屈さ」以外に何も感じることができない人もいただろう。その落差はまさに「知的好奇心」の有無に由来する。少なくともダーウィンの辞書には「退屈」の二文字はなかったであろう。

 歴史を振り返ると、新しい発明や発見した人、時代の変革をリードしてきた人たちは皆、志が高く好奇心旺盛な人ばかりだ。考えが「前向き」で行動が「ひたむき」である。電球を発明したエジソンは幼少の頃から好奇心旺盛で、算数の授業中には「1+1=2」と教えられても鵜呑みにすることができず、「1個の粘土と1個の粘土を合わせたら、大きな1個の粘土なのになぜ2個なの?」と質問したり、英語の授業中にも、「A(エー)はどうしてP(ピー)と呼ばないの?」と質問するといった具合で、授業中には事あるごとに「Why?(なぜ?)」を連発して、先生を困らせていたという。また、明治維新の指導者としてよく知られている吉田松陰は、西洋の先進文明に心を打たれ、盗んだ小舟で外国船に乗り込み渡航を試みたり、政府の理不尽な条約締結に反対し、弟子が止めるのもかまわず討幕を企てるなど波瀾万丈の人生を歩んでいる。いずれも失敗し、罪を問われ投獄されたが、開国という高い志と固い決意があったから、獄中生活も勉学の好機として驚くほど多くの本を読んだり、原稿を書くなど猛勉強している。萩にある松下村塾は松陰が主宰した小さな私塾であったが、身分の分け隔てなく塾生を受け入れ、明治維新を担った高杉晋作や伊藤博文などの多くの人材を世に送り出した。

 いつの時代も、人は、汚れることを嫌い、格好悪い姿を世間に晒すことをいやがるものだが、世間はそれほど一人の人間を注視などしていない。しかし、頑張っている若者への眼差しは結構温かく、泥だらけになっても努力を続けている姿を美しいと賞賛し心から応援してくれるものだ。迷い・悩むときは『佇み・考える時間』も必要だが、時間をバネにして飛び立たなくては前に進めない。成長期の若者には、是非ともいろいろなものに興味関心を持ってチャレンジしていただきたい。自ら決断し、まず一歩を踏み出していただきたい。遠慮や尻込みは禁物だ。まして、「食べもせずに」「聴きもせずに」「読みもせずに」そして「登りもせずに」、その食材や音楽、書物、山の悪口を言ったり批判することは慎まなければならない。最悪なのは食わず嫌いである。時代や価値観がどんなに変わっても常にチャレンジャーであって欲しい。キーワードは『知的好奇心」である。

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