学校法人 文徳学園 文徳高等学校・文徳中学校

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たまねぎ

2017年7月11日

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文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第154号

 

『たまねぎ』

学校長 荒木 孝洋

 

 私はタマネギが大好きだ。焼いても炒めても生でも天ぷらにしてもうまい。カレーの具材にも欠かせないタマネギ、ほんのりとした甘みと食感が何とも言えない。皮を一枚一枚剥がすと芯しか残らないが、その芯から出た種を畑に植えると、また、一枚一枚と皮を増やしながら立派なタマネギに成長していく。私は育てたことはないが、土壌管理と気温や肥料によって成長に大きな差が出るそうだ。人間の成長もタマネギに似ている。子供は螺旋階段を上るように、学習によって知識と知恵を膨らましながら大人に成長していく。玉葱の栽培は石灰を撒く土壌作りから始まるが、学習もしかり。基礎・基本の習熟が土作りにあたる。土作り(基礎基本)ができていないと、その後どんなに肥料(教育)をやってもうまく育たない。その原点は江戸時代の寺子屋教育にある。「読み・書き・そろばん」の繰り返し、タマネギの苗作りにあたる。初等教育では今も昔も変わらない。

 

 ところが、昨今の教育改革提言を見ると「知識を伝達する教育より、自ら学び、自ら考える力を育成することがこれからの教育では重要である」と、知育が軽く扱われているように感じる。「情報化の進展は、知識を陳腐化させるスピードを速めるから、古い知識はすぐに役立たなくなる。それゆえ、情報収集の方法を教える方が価値がある。情報収集の方法さえ身につけば、問題解決能力や創造性を発揮できるようになる。また、生涯学習の時代になるから、学校時代は学び方さえ身につけておけばよい」といった付則も提言されている。いずれの指摘も、タマネギ作った(授業をした)ことがない人が、壇上で作り方(授業の仕方)を講釈しているように聞こえてしまう。

 

 たしかに、マスコミやネットで流れる情報の陳腐化の速度は速まっている。しかし、学校で教える知識は、もともとそうした「流行」の知識やニュースではない。むしろ、新しい知識を理解する上での基礎となる知識である。高校レベルの理科の知識なしに、最先端の科学技術の理解は無理であるし、現代社会の問題を考えるときも高校レベルの社会の知識が必要になる。数学は論理的な思考を訓練するのに最も有効な教科である。いずれの学習も、新しい知識は常にそれ以前の知識と繋がっていることを忘れてはならない。また、コンピュータによる情報検索の方法にどんなに詳しくなっても、そこで得た知識や情報を理解できなければ、集めた情報は無意味になる。さらに、情報の量が多ければ多くなるほど選別する力(知識)が益々重要になる。一方、生涯学習の時代だからといっても、学校時代の学びが無意味だと言うことにはならない。むしろ、基礎知識があるとないとではスタートラインが随分と違ってくる。たとえ、忘れたにしても一度理解した経験があるかないかによって、学び直しの難しさが違ってくる。

 

 振り返ると、今回提言されている「自ら学び、自ら考える力を育成すること」は、昔から学校教育の根幹に据えられていた目標であり、前段には「知識の習得を通して、・・・」と書かれていた。教師は研究会等で指導法を磨きながら教科指導に全力を注いでいた。ところが、昨今の矢継ぎ早な改革は真逆である。小学生から英語教育が始まり、IT教育、ディベート、◯◯教育、記述式の大学新テスト、アクティブラーニング・・・。やることが広がりすぎて、じっくり考えさせる時間がドンドン減っている。人間の意欲やリズムを無視したゆとりのない教育論が跋扈(ばっこ)するようでは「たらいの水と一緒に赤子を流してしまう」ことになってしまう。つまり、「あまりにも熱心に改革や改変や行動を急ぎると、不必要な要素を取り除くうちに必要な要素までとり除いてしまうことになる」ということだ。タマネギの温度管理と同じように、人間の学びには試行錯誤の熟成(ムダな)時間がいる。拙速と迅速は似て非なること、為政者や教育者がいつも心しておかねばならぬことです。

 

面受(めんじゅ)

2017年6月19日

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文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第153号

 

『面受(めんじゅ)』

学校長 荒木 孝洋

 

 昭和44年、私は大学を卒業すると同時に横浜の盲学校に着任した。もちろん、新幹線はないから、夜行列車「みずほ」に乗って12時間の長旅である。ゼミのI先生から「東京では、一流のものに触れる機会が多いから、金を惜しまずに出かけるように」と、餞(はなむけ)()の言葉を戴いた。美術館、音楽会、演劇鑑賞、講演会、神田の古本屋、・・・ナケナシの給料を叩((はた))いてせっせと通った。菅原洋一や由紀さおりのリサイタル、日フィルのコンサート、上野美術館、末廣亭の落語、有名人の講演会・・・etc。休日には丹沢山のハイキングや富士登山、国会議事堂周辺での安保反対デモも見に行った。横浜関内駅裏のドヤ街と言われる食堂で日雇い労務者と一緒に安酒を煽ったことも思い出す。肉声を聞き、存在を感じ、その人やその集団と同じ時間を過ごしたこと、キツイ思いをして達成した苦労など、50年経った今でも、心の奥の襞に染みこみ新鮮な形で宿っている。原体験は手間暇かかるが、その人の表情や息遣い、肉声を通して聞こえた言葉には全身で感じるものがあり、時間と場所を共有したからこそ腑に落ちることも多い。

 

 ところで、人工知能の開発が進み、インターネットがあらゆるものを結びつけ、生活の効率や利便性を高める機能が次々と生まれている。人により使いこなせる度合いは違うが、自分だけ参加しないという選択は難しくなってきた。「コンピュータにできることはコンピュータに任せ、人間は人間にしかできないことに時間をかければ、人間の能力は向上し社会は発展する」と言われるが、果たしてそうだろうか? 利便性の裏側には失っていることも多い気がする。例えば、ラインやメールの普及は連絡を容易にしたことは確かだが、簡単に送・受信できるため、手紙を書いたり対面して会話するなどの習慣や能力は気づかないうちに萎えている。また、ツイッターなどで発信された情報はコンピュータに蓄積され、いつでも誰でも検索できる利便性はあるが、読んでもらうために偽情報を流す人も現れ、発信された情報の信頼性がなくなっている。また、読む方も自分の考え方に合うものや興味あることだけ探す傾向になる。そうしているうちに、頭の動きが検索型になってしまい、わからないことがあれば検索し直ちに答えを見つけようとする思考形態に陥っていく。つまり、連想して考えたり持続して考えることが苦手になり、都合の悪い意見は排除してしまう性癖が身についてしまう。学校教育で最も大切にしている「相手のことを思いやる、相手の意見を聞く」教育の否定でもある。

 

 気がつくと、後戻りできないネットの広がりだが、立ち止まって検証することはできる。特に、情報機器の低年齢化は、我が国の未来にとって大変困った事態である。ノーベル賞を受賞した日本人の多くは地方出身者であるが、知的好奇心旺盛な青少年期を過ごした方が多いと聞く。幼少期は、純粋で多感であり、「何で?」を連発しながら成長していく年齢である。グローバル化していくこれからの時代、英語力やプレゼンテーション力、コミュニケーション力は益々重要になるだろうが、いずれも手間暇かけて獲得した知識やまどろっこしい思索の産物だ。仏教に「面受」という言葉があるが、原体験はこれに近い。「面受」のもともとの意味は、面と向かって口伝えに仏の教えを伝えることだそうだが、このことは仏教に限ったことではない気がする。世界の情報をインターネットで調べたり、CDで音色のいい音楽を聴くこともできるが、実際にその人に会ったり、生の歌声や主張を聞く体験はとても意味があることだと思う。幼少期の自然体験や友達との戯れもその類だ。授業料は少し高くつくが「経験は最良の母」とも言われる。せめて高校生ぐらいまでは「さらばスマホ」、廻り道を選択して欲しい。読書や体験、人との交わりを通して人間力を高めたいものだ。

 

急なくして緩ならず

2017年5月11日

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文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第152号

 

『急なくして緩ならず』

学校長 荒木 孝洋

 

 スポーツの世界では、優勝すると思われていた選手が惨敗し、逆に、予想だにしなかった選手が優勝することがある。そんな時、敗者は「力んでしまいました」と、勝者は「肩の力を抜くことができ、最高でした」という言葉をよく口にする。理由は何だろう?。一流のスポーツ選手は、あらゆる場面を想定し、繰り返し繰り返し、心身を極限まで痛めつけて練習を重ねる。そうすることで、実際の試合になると肩の力が抜けて練習の成果がでる。しかし、肩の力を抜くことばかり考えて、練習そのものをいい加減にしていたのでは、かえって、試合で肩に力が入りよい結果を残すことができない。

 

 受験もスポーツに似ている。毎年のことだが、模試ではいい点を取っていた生徒が、本番の試験では緊張して力を発揮できず悔しがる場面を目にする。「緊張する、あがる」ということは、準備不足や力量以上の結果を求めることであり、心の問題も含まれる。このことについて、仏教の経典に次のような示唆に富んだ話がある。釈迦が弟子に対して説法する場面である。真面目に一心に修行し、足の裏から血を出すほど痛々しい努力を続けながら、なおも悟りを得ることができず苦悩している弟子に向かって、「お前は琴を学んだことがあるだろう。糸は張ることが急であっても、また緩くても、よい音は出ない。緩急よろしきを得て、はじめてよい音を出すものである」と釈迦は弟子を諭す。さらに「弦を張るときは、張ることが急(強すぎる)であってはならないからと、最初から緩くすると、残念ながら張り方が中途半端になってよい音は出ない」と。釈迦の教えは心の緩急にも重なる。「緩急よろしき」というのは、「緩(力みがとれる)は作るものではなく、急(ハードな訓練)の後に自然と訪れるものだ」ということだろう。

 

 因みに、成績が向上しない生徒が陥りやすい習慣のひとつが、好きな教科にだけ時間を費やす学習だ。最初から弦を緩く張っているようなものだから、成果は期待できない。試験では何が出るかわからないから、教科書の隅々まで、小さい脚注にも注意を払い学習する必要がある。疑問があれば先生に質問するもよし、憶えられないなら繰り返し繰り返し復習しなければならない。好きなことだけするのは趣味であって学習ではない。好きなことも嫌いなことも勉強するのが学習。嫌いな教科を避けているようでは、いざという時、不安が増幅し力を発揮できない。

 

 そして、勉強する上で、心しなければならないことがもう一つある。学習は難問への挑戦ではなく基礎・基本の習熟にあるということだ。福岡の予備校で教鞭を執られたいた(故)磯野幸先生の言葉を思い出す。「基礎の上に基礎があり、基礎の下に基礎がある」と。ここで言う基礎・基本とは易しい問題を解くということではない。原理・原則に従って知識を系統的に整理することを指している。難問・奇問もヒントは基礎・基本、すべてが教科書に記載してある。東大に合格した松野君(23才)は、高校在学中、躓くと教科書に返ることを繰り返していた。まさに、教科書が最良の参考書だということの証だろう。

 

 ところで、現在のセンター試験は知育偏重であるとして、平成35年度から学力評価テスト(仮称)に変更される。「知識だけでなく考える力を問う」というのが目的である。「今までの学びはパーツを作っていたにすぎない。例えば、中高では、英単語を覚える、方程式を作る、化学反応式を覚えるだけのパーツ作り、その量と質を問うのがセンター試験ということだった。これをもっと発展させて、そのパーツを使って何ができるかを問いたい」との談話だ。国語の記述式問題や英語の外部試験導入が検討されている。全貌が判明するのはもうしばらく先のようだが、「考える力」というのは物作りに似ているから、立派な物を作るには、まずは立派なパーツ(部品)を揃える必要がある。受験もしかり、国語や理科や数学など授業で学ぶ内容がパーツである。しかも、組み立て技術(思考力)まで問うのだから、パーツの精巧さが益々重要になる。

 試練を乗り越えるための必要条件は、スポーツも学習も同じ、「急(ハードな訓練)なくして緩(力みがとれる)ならず」の教えを心しておくこと、そして、その訓練は基礎・基本の徹底にあること。文徳学園は、皆さんのひとり一人の夢実現を応援し続けます。生徒諸君の日々の精進を期待する。

私は私を創っていくただ一人の責任者です

2017年4月14日

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文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第151号

 

『私は私を創っていくただ一人の責任者です』

学校長 荒木 孝洋

 

 寒さのせいで桜の開花が例年より遅れたが、入学式を待っていたかのように開花した。あいにくの雨模様での入学式だったが、希望に満ち溢れた高校生活のスタートであったものと確信します。新たな環境に戸惑うことがたくさんあると思うが、自分の抱いている夢をもっと大きく膨らませ、将来を見据え、夢を実現するために精進して欲しいと思っています。入学式では、これからの高校生活について3つのことを希望しました。抜粋して紹介します。

 

 一つ目は“近道をせず、失敗をしてもよいから、何事にも勇気を持って挑戦する”ということです。皆さんは、感性豊かで高い能力を有していますが、夢実現に向けてさらに多くのものを吸収し自らを磨き上げる必要があります。人は失敗や挫折を経験し、それらから学ぶことで成長します。夢を叶えよう、幸せを掴もうと思えば、人は行動し、時には変わらなければならないこともあります。(中略)「私は私を創っていくただ一人の責任者です」という言葉がありますが、個人の適性というのは、初めから固定して備わっているのではなく、行動し、体験する中で、隠れていた才能や特技に気づくものです。大切なことは失敗をしないことではなく、自らの意志で何かをはじめ、きつくとも継続することです。近道しないことです。五年先、十年先に世間から必要とされる人間に成長していただきたいと思います。

 

 二つ目は“規律ある行動をする”ということです。本校の生徒は、明るく・素直で・礼儀正しいという評価を得ておりますが、それは、自他の存在を認め、互いに助け合うことの大切さを認識しているからであります。規律ある行動は本校の校風であり、皆さんにも受け継いでいただきたいことのひとつです。「時間を守る」、「爽やかで大きな声の挨拶をする」「人をいじめない」誰でも簡単に出来ることです。自分のことを自分で行うのは当然のこととして、周りへの気配りも忘れないでいただきたい。一人一人が規律を守り、品性を備えた行動をすることで、学校全体にも文化の香りがうまれてきます。「自分の行動を律し、自立した人間」を目指して集団生活を送って下さい。

 

 三つ目は“よき友を作る”ということです。生涯にわたりつきあえる友は、かけがえのない財産です。利害や打算を抜きにした真の友人が得られるのは今日から始まる高校時代です。目先の利害や遊び半分に調子を合わせるだけのつき合いならば、共に足を引っ張るだけであって、低きに流れ、取り返しのつかない悔いを残すことになります。真の友情は、真剣に努力しあう人と人との間にこそ生まれるものです。学校は勉強する場であると同時に、様々な活動を通して友達を作り、互いに切磋琢磨する場でもあります。長い人生をさえさ合う強い絆の友情がうまれることを期待します。

 以上、三つのことを述べましたが、皆さんにはこれからの三年間で大きく変身して欲しいと思っています。文徳高校は人生を生き抜く「体力・気力・そして学力」を身につける道場であると考えて下さい。文徳での三年間を楽しくするのも、つまらなくするのも結局、君達自身の意志力と行動力にかかっているのです。これまで頑張ってきた人は更に頑張ること、中学時代を少し反省している人は今日から頑張れば大丈夫です。いずれにしても、具体的な目標を設定し、「ガンバレ自分」と自らを励ましながら、自分の能力に磨きをかけて欲しいと思います。日本一元気で楽しく、夢と希望に溢れる学園を目指してみんなで頑張りましょう。文徳高校は、「叶えますあなたの夢、鍛えます体・徳・智」を合い言葉にして、皆んの夢実現に向けた精進を全力で支援します。

you might think・・・

2017年1月17日

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文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第150号

 

『you might think・・・ 』 

学校長 荒木 孝洋

 

 暦の上では間もなく大寒、一年のうちで一番寒い季節がやってきた。朝の挨拶も「寒いですね」から始まる。20年も昔のことだが、今でも思い出す。今日のように気温がマイナス○度の寒い朝だった。1限目の国語の授業、S先生は黒板に次のような英語を書かれた。『You might think but tody’s some fish』。意味が解らず戸惑っている生徒たちに向かって、S先生は次のような訳をつけられた。『You might(言うまいと)think but(思うが)tody’s(今日の)some fish(寒さかな)』。日本語の読みと英語をない交ぜにしてあるのである。しかも、訳した日本語は5・7・5調の俳句になっているではないか。その後、授業は「俳句を作る」という本題に入った。推測するに、S先生の授業はいつもこんな形で進められていたのだろう。テストの平均点は、いつも他のクラスを大きく引き離していた。しかも、先生の授業に魅せられたファンも多く、休み時間や放課後になると、S先生の周りには質問する生徒が殺到する。また、教材研究に最も力を入れておられ、その単元に関係する書籍はすべて読まれており歩く本屋さんと呼ばれていた。私も、先生の授業を見習って努力はしてみたものの、とうとうその域に達することなく教師生活が終わってしまった。

 

 ところで、文徳学園では、この3学期の重点目標として「教室の環境整備」を掲げている。掃除の徹底や整理整頓はもちろんのこと、「真剣に学ぶ教室を作ること」ということである。現役の国語教師として52年間、73才まで授業をされた大村はまさんの言葉を借りると、勉強に打ち込める教室とは「安らかに、しかし、締まった雰囲気であること。安らかとは、読み書きに集中できるのびのびとした雰囲気、特別に一生懸命するでもなく、怠けてもいない平静さ」ということだそうだ。大村さんは、授業の準備には命をすり減らすほどのエネルギーを注がれていたが、授業については「ロウソクのように静かに燃えていることが大切だ。固くなく柔らかすぎず、穏やかで平静であって礼儀正しく、甘ったれることなく。それがものを学んでいく姿勢です」と話されている。また、教師の在り方についても、著書「教室をいきいきと」の中で次のようなことを具体的に記されている。幾つか抜粋してみる。(1)子どもができなくても慌てたり驚いたりしないこと。子どもが失敗しても、教師は悠々としていること(2)出来不出来をあまり褒めたり貶したりしないこと。善し悪しを決めるだけの褒め言葉は避ける。優劣ではなく、ひたすら学ぶ世界を作ること(3)子どもが失敗したら、顔色を変えるより対策を講じること。忘れ物を叱っても忘れ物は見つからない(4)レントゲンで体を調べるように子どもの頭の中を見透かすこと(5)柔らかな話し方を練習しておく。聞こえる程度、大きすぎない方がいい。人の前で黒板に字を書く練習もしておくこと。書いたら教室の後ろから眺めてみること(6)授業にはホッとするヒトトキがいる(7)下手な発表をさせない。成功しないと思ったら発表させない。失敗から学べる生徒は少ない。・・・他にもいっぱいありますが、先生の著書を御一読下さい!。

 

 昨今の教育改革は忙しすぎて戸惑うことが多い。「ああせよ。こうせよ」と指図するのが学者、「知らぬまにできるようにする」のが教師。学者の真似をしても子どもはついてこない。新劇女優の山本安英さんは「自分が何を読み、どう勉強しても、それが舞台で生かせなければ、意味がない」と、役者の難しさについて述べておられる。教師も役者と同じ、子どもが理解できてナンボの世界。教師は、自由に意見をぶつけ合う切磋琢磨の中で力量アップしていく。文徳では若手教師の研修が盛んである。指導案を全員で作り、代表して誰かが研究授業をすることもある。

Buntoku school is developing(文徳は発展途上の学校です)