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2015年10月28日
文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第136号
『真逆の教育改革(続々)〜眩い星空〜』
学校長 荒木 孝洋
朝夕の寒暖の差は大きいが、さわやかな秋空が続き、夜には遠い彼方の星空に身も心も癒される。我々は、山にいても、海辺にいても、また、都会にいても、目に映る星座の姿に大きな違いを感じない。ところが、我々が立っている足元は草地であったり、砂浜であったり、アスファルトだったりと、条件がさまざまに異なる。地面の状態が異なれば、それぞれに適した靴や歩き方がある。砂地に下駄では歩きにくいし、山道をサンダルで歩けば危険である。アスファルトを裸足で歩くわけにはいかない。もちろん、大人と子供では歩幅も違うし、登りと下りでは足に掛かる負荷も場所が異なる。
このことは、学校経営にも当てはまる。学校が、心理的にも地理的にも遠くにある国の方針や先進事例ばかりに目を奪われてしまうと、学校が置かれている地域や実情をつい見過ごし、大事な問題を見逃しかねない。例えば、学力やスポーツ競技での入賞数などが取り上げられるとき、学校や教師の努力だけが評価されがちだが、そもそも成果の背景には地域性とか家庭環境、本人の能力や意欲などのさまざまな要素がある。教育の成果は教師の努力もさることながら、子供の努力、保護者や住民の努力などの総合力でしかない。学力が高いとされる自治体や学校では、子供の家庭学習時間が長く、人とのつながりも濃いと言われている。そんな先進モデル校には遠方からの視察者も多いが、残念ながら、訪れた視察者は授業方法ばかりに目を奪われ、自校で同じことを実践しても改善に繋がらないことが多い。置かれた地域や学校の実態を聴聞したり観察するのも視察の大事な視点なのに・・・空ばかり見てると転んでしまう。
そもそも、同じことを同じ方法で行っても差がつくのが教育。脚本家の山田太一さんは『夕暮れの時間に』という著書の中で、「知力・体力とも人それぞれに限界がある。そうした宿命を背負っているからこそ人生は味わい深い。全員が同じラインから一斉に駆けだすような今の競争社会は、ちょっと信じられないくらい非現実的で、あまりに無残です」と述べておられる。最近の教育改革もしかり。教育再生会議から矢継ぎ早に改革が提言されるが、教育はものづくりと違って対象は生きものの生徒だから、新しい施策が提言されても『よーいドン』とは進められないのが学校の足下。地域によってその対応には温度差があり一律に一斉に全てが実施できることばかりではない。例えば、児童生徒が数人しかいない山村での英語教育、指導者を捜すのも難題だし、意欲ある生徒だったとしても、外国人が日常的に闊歩している大都会と同じようにオーラルコミュニケーション能力が高まるとは思えない。元来、生きていくための基礎・基本をジックリ学ぶのが初等・中等教育。学力が高いと言われるフィンランドでは、教育の専門家で構成されるプロ集団が時間をかけてカリキュラムを検討し、その運用は地方に任せていると聞く。「今の子供はなっていない。ゆとり教育のせいだ。詰め込み教育で教育再生を」といった具合に、場当たり的な教育行政の日本とは随分と違うようだ。
私の48年の教職経験を通してのことだが・・・一定の教育成果を上げている学校の共通点は、自前の教育を行っている学校、つまり、自校が立つ足元を確実に見つめ、実態に即した教育を行っているということだ。足下に適した靴と歩き方で前進し、それがしっかりと地元にフィットしていれば、その成果は持続する。空から見ると、カメのように遅々たる前進にしか見えないかもしれないが、こんな教育活動の展開こそあるべき学校経営の要諦だと確信している。星空に映し出される国の指針は東京一極集中で眩いばかり。教育格差をなくすのが文科省の役割。煽るばかりの提言では地方も日本丸も沈んでしまう。競争は両刃の剣、「日本丸、そんなに急いでどこへ行く?」。地方と都会のタイムラグを許容する改革こそ「地方創生」のキーワードだと考える。
2015年10月14日
文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第135号
『〜続〜真逆の教育改革』
学校長 荒木 孝洋
開校して55年目を迎えましたが、世間の人が「文徳高校をどんなイメージで見ておられるのか?」時折気にしながら日々の教育活動を振り返っています。文徳高校には、難関大学を目指して学力向上に努める生徒がいる一方で、運動能力を鍛えて全国大会で優勝を目指す生徒もいます。ごく普通に青春を思う存分楽しみたい生徒がいてもよいと思っています。そんな意味で本校は総合高校です。校訓の「体・徳・智を磨く」を具現化するために『あ・た・まを磨く』という標語を掲げています。『あ』は明るい挨拶ができる・温かい言葉がある。『た』は確かな学力と逞しい身体を育む。『ま』は真っ直ぐな心で前向きに行動する、ということです。自己の能力を磨き、自分の都合だけでものごとを判断しないよう学びを極め、磨いた能力を世のために役立てる。そのためにも多種多様な個性を備えた生徒がいたほうが、学びは進化すると考えています。
ところで、社会を支える人材を送り出すことが我々教職員の役割です。そこで生徒たちには「情を磨く」よう教えています。相手の気持ちを的確に掴み、会話の余白を読み取れる能力は、社会で生きていくために最も必要とされる資質だと思うからです。そのために、本校では、名称は一定していませんが、平均すると月に一回、講話を聴いたり文化的行事をとりいれ、その都度必ず感想文を書きます。授業や部活動などの日常から離れ、自分自身や身の回りを振り返る習慣を養うためです。また、生徒指導では形を大切にし、指導の三原則として『挨拶』『掃除の徹底』『時間を守る』を掲げています。あいさつのできない子に情を磨く話は通じません。掃除をしない子に社会を支えてくれと言っても伝わらないでしょう。時間を守れない子が相手を大切にしているとは思えません。能力や好き嫌いの問題ではなく、すべての生徒に身につけてもらいたい大切な習慣だと思っています。さらに、学習面で身につけるべき形は『自習力』だと思います。どんなことに対しても、まず自分の頭で考える。そんな姿勢を高校時代に自分のものにして欲しいと思っています。本校では『進度より深度』を指導指針として授業を行っています。「YESかNOかで終わり」「正解したら終わり」という安易な道を選ばず、異なる意見や主張であっても、相手の主張に耳を傾け、その意見を自らの頭で咀嚼し、その後、自らの答や別解を提案できる人になって欲しいと思っています。
因みに、我々が担うのは中等教育です。人生の骨格を育むべき重要な時期に、グローバル化やキャリア教育を持ち込む昨今の風潮を危惧しています。こうした動きの背景には、教育に対する産業界、経済界からの強い要請が透けて見えます。しかしながら、中等教育の場では、こうした外野からの声には、あえて耳を塞ぐべきだと考えます。例えば、英語教育、ネイティブに比較して中途半端な英語しか話せない若者が、底の浅い学びしか経験しないとすれば、日本人の知的生産力は確実に落ちていくでしょう。気づいたときは手遅れです。中等教育で必要なのは、実用性一辺倒の学びなどではありません。求められるのは、長い人生をがっちり支える骨太の知力・学力・人間力を養うことです。英語力もITスキルも長けているに越したことはないが、高校教育の柱ではありません。むしろ、基礎基本の知識や『自習力』を涵養し、判断力や決断力・想像力を養うことが肝要だと考えます。
一方、大学の状況も危機的です。「一億総活躍社会」とはほど遠い提言が目白押し、学費は上がり、地方の大学では定員減ラッシュ、貧乏人は益々学問から遠ざかる。しかも、大学改革は偏った提言が多く、例えば、産学連携のもと企業論理が優先し、哲学・宗教学・倫理学などの人文科学系が軒並みに軽視され国の支援は細る一方。また、日本では哲学が廃れる一方なのに、フランスやイギリスではもっとも優秀な生徒が哲学に進むと聞く。本来、国の根幹を支える礎となるのはこのような人材ではないでしょうか。学生は理系か文系かに軸足を置くとしても、文理を問わず広く学べるのが大学の優位性。資格取得や実学優先の学習なら専門学校で十分。大学は世間から超然とした存在であって欲しい。「就職や資格と無縁の学部・学科の学生が威張れる大学こそ一流大学だ」と世間が認識するようになれば日本丸も安泰でしょう。拙速な大学改革を憂うのは私だけではなさそうです。
2015年9月28日
文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第134号
『真逆の教育改革』
学校長 荒木 孝洋
記録的な猛暑がやっと終わったと思ったら、今度は茨城・栃木・宮城の豪雨、川の堤防が決壊し大規模な洪水被害が発生した。近年になって、これまで経験したことのないような規模の災害がこうも立て続けに発生すると、やはり地球規模の大きな変化が起きているのではないかと思わざるを得ない。一方、国会では反対のデモが渦巻く中、集団的自衛権を容認する安全保障法案が承認された。私は昭和21年生まれだから、終戦以来ずーっと平和な日本の歴史と同じ歩みをしてきただけに今回の法案には一抹の不安を憶える。平和という大河が法案施行によって決壊しなければよいがと思うのは私一人ではなさそうだ。
ところで、教育界にも大洪水の兆しがある。マスコミはほとんど取り上げないが、学習指導要領の改訂、大学入試改革など2020年を「ターゲットイヤー」とする大改革が着々と進行している。果たして教育界は、どのような形で20年の東京五輪・パラリンピックを迎えることになるのだろうか?。今回提示されている教育再生計画(教育は一度も死んだことはないのに再生とはなんぞや?私のもっとも嫌いな表現だが・・・)について下村文部科学大臣は「明治以来の大改革」と述べている。話の趣旨は「どれだけ知識を習得したかという教育から、習得した知識をどう活用するかという教育への転換」、そのために「指導要領を変える、授業もティーチングからアクティブ・ラーニングへ転換する、知識・技能を問うような入学試験を改訂する」である。具体的には、「現代歴史」「公共」の新科目の創設とセンター試験廃止に伴う新テストの複数回実施が提起されている。趣旨には賛成だが、膨らむばかりの提言に困惑している。学校では、意欲も学力も異なる生徒に対して、限られた時間の中で、英語や国語・数学などの教科の学力向上に努め、場合によっては、不足する部分を早朝や放課後の補講で補っている。さらには、国際化、情報化といったキーワードで指導内容も膨らむ一方、交通マナーの指導、スマホの指導、薬物濫用防止啓発、いじめ撲滅の人権教育・・・土・日は部活動の指導もある。それでも、愚痴も言わずに教師は頑張っている。子どもの悩みやニーズに応えながら必死の支援活動である。まじめな教師は「さらに、何を頑張ればよいのですか?」と問いかけるだろうし、「もう頑張れません」と消えゆく教師も増えていると聞く。人材枯渇も心配になる。行政の方々は学校の実情をご存じなのだろうか?
そもそも教育は国家百年の計と言われるが、その目的は子どもに「生きる力」を養うことにつきる。「生きる力」とは「これからの世の中を生きていくために必要なスキルは何か、どうすればそれを身につけることができるかを自分で考え実行していく力」だ。誰かに「これが必要だよ」とインストールしてもらうような教育では、本当の「生きる力」は育まれない。ITリテラシー、プレゼンテーション能力などを、スマホのアプリのように「パッケージ化されたスキル」にして、それを子どもに与えることばかり議論しているようでは、教育の本義からそれてしまう。元来、子どもは普通に各教科を学ぶ過程で様々な思考や表現を経験し、トライ・アンド・エラーを繰り返しながら知識と知恵を身につけ、「生きる力」を獲得していく。子供の学力差や成長に早遅はあっても、学ぶ意欲は均等だ。チャレンジ・アンド・エラー、この姿こそアクティブ・ラーニングそのものだと考える。
大学入試改革もしかり、センター試験は一点刻みの知育偏重入試だということで、新テストの導入が提起されているが、運用の問題であって、「教科の枠を越えた出題」とか「記述式の問題」「外部試験の活用」への変更であり、洗練された出題のセンター試験とはほど遠い提言だ。高校でも慎重論が多い。また、AO入試・推薦入試などの多様な選抜試験を推奨しているが、すでに、一部の私大では青田買いとも思えるAO入試が跋扈しており、5月のオープンキャンパスに参加しただけで「合格確約証」を発行する大学もある。学力に不安のある生徒は学習を放棄して入学を確約する。提言が実施されると、年に複数回新テストが実施され、AO入試が拡大し、通年入試が罷り通ることになる。ジックリ学ぶ時期を保証するのが高校教育の神髄。キャリア教育とかアクティブ・ラーニングとは真逆の光景が2020年の高校現場となっているのでは・・・。杞憂であることを願っている。
2015年6月4日
文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第133号
『四者悟入(ししゃごにゅう)』
学校長 荒木 孝洋
県の高校総体・総文が終わった。毎年の光景だが、全国や九州大会の切符を手にして歓喜乱舞する生徒がいる一方で、目標に届かず悔し涙を流した生徒も多かっただろう。結果はともあれ、流した汗はすぐに乾くが、流した涙は一生の宝物になる、と確信する。全力を尽くした文徳生を褒めてやりたい。特に、3年生は高校生活最後のイベントが終焉し、いよいよ自らの進路実現に向けた新たな戦いが始まる。ボールをペンに握り替え、『夢実現』に向けて自らの腕を磨いて欲しい。
ところで、こんな笑い話がある。全身が痛いという男がいた。頭を触れば頭が痛い。腕を触れば腕が痛い。そう訴える男に向かって医者は言った。『あなたの身体はどこも悪くない。ただ指が折れているだけなんだ』。・・・結果が思い通りにならないと、ついつい、あそこが悪い、ここが悪いと、我々凡人は嘆くことしきりである。そんな悲劇の主人公気取りの自分を突き放して遠くから眺めれば、「どこも、誰も悪くない。ただ、あなたの腕が悪い。あなたの心が折れているだけだ」という医師の診断を受けることになるだろう。反省とは磨く腕を探す作業である。職種によって磨く腕は異なるが、我々教師は授業力という腕を磨かねばならない。医師は手術の腕前で、落語家は話術で、裁判官は順法精神で勝負するように、教師は授業で勝負をする仕事である。本校には、授業について、教師が実践しなければならない共通な努力目標がある。( )内はその効果。具体的には・・・
授業が整然としている(その先生が言うことだから間違いないはずと生徒は先生を信頼する)
授業に迫力がある(生活面での指導にも生徒が素直に耳を傾けるようになる)
授業が大きな声でなされる(生徒もある程度の声を出さざるを得ない)
授業の中で人権への十分な配慮がなされている(生徒の正しい人権感覚が身につく)
授業が分かりやすい(生徒は学校が楽しくなり欠席が減る)
授業が楽しい(学習意欲が高まり、もっと難しいことを学びたくなる)。
私は22才で教師になったが、最初に赴任した学校のN校長先生から次のような訓辞を戴いた。「荒木先生は数学の先生だから四捨五入は知っているでしょう。四捨五入のできる先生になって下さい」と。意味不明で頭をかしげていると、校長先生は黒板に『四者悟入』と書き次の話をされた。「教師は4つの道でプロになりなさい。その4つとは、学者(専門の知識を磨きなさい)、役者(教壇は舞台だ。生徒がわかる授業をしなさい)、易者(子どもの適性や能力を見極め将来の進路を拓いてやれる教師になりなさい)、医者(子どもは多種多様、心の悩みに気づく教師になりなさい)。これができて始めて悟りに入れる(教師として一人前になれる)」と。以来、ずーっとこの言葉を心に刻み精進してきたつもりだが、46年の教師生活を振り返ると、『難題』への答えは今も出ていない。死ぬまで『悟入』は難しそうだ。昔の生徒のことを思い出すと「スマナイ」と思うことばかりで忸怩たる気持ちである。N校長先生は数年前になく亡くなられたが、ご存命なら「まだまだ、腕の磨きかたが足りない」との診断を下されることだろう。
ところで、最近の矢継ぎ早な教育改革の提言に戸惑っている。小学校への英語導入、センター入試の改革、道徳教育の教科化、グローバル人材の育成、アクティブ・ラーニング、教員免許の国家試験化・・・。「総合的な学習の時間」もやっと根付いたのに、アクティブ・ラーニイングへの転換、「折れてもいない骨が折れている」と診断されるようなものだ。主幹教諭の新設は教科指導のエキスパートをスポイルするばかり。現場を知らない人たちの処方箋には疑問を感じる提言が多すぎる。課題が指摘されると「そうならないように努力します」ではすまないのが教育だ。国会では相変わらず、与野党の噛み合わない議論と非難・中傷合戦や居眠り、「日本は大丈夫かな?」と切なくなる。国家試験が必要なのは教員免許ではなく、政治免許ではなかろうか。その要件は、『専門的な知識』と『説明力』そして『日本の未来を占う想像力』『庶民の幸せを創造する企画力』の『四者』である。
2015年5月7日
文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第132号
『知的好奇心』
学校長 荒木 孝洋
文徳の4月は慌ただしい。入学式(4月9日)、新入生研修(4月13日〜4月15日)、体育大会(4月29日)と、新入生は息をつく暇もない。連休が開け、やっと落ち着いた文徳での新学期がスタートしたようだ。
ところで、「小人閑居して不善を為す」という言葉がある。つまらない人間はあまり暇だと、ろくな事はしないという意味である。言い得て妙、古人の洞察力には驚かされる。若い人たちにはピンとこないかもしれないが、そもそも、人生に於ける最大の敵は「退屈」である。人生とは「退屈」との戦いと言えなくもない。従って、生きること自体に「退屈」を感じ始めたら事態は深刻である。
『種の起源』を著したイギリスの博物学者ダーウィンは、青年期に動物学の研究員として軍艦ビーグル号に乗り組み、1831年からの5年間にわたる南米及び太平洋の調査航海に出た。その間の事情を書にしたのが『ビーグル号航海記』である。その中で、リオデジャネイロでの彼自身の体験について「この地方の豊穣な風土では、生物は到る所に充満していて、目を引くものに限りがなく、ほとんど歩くこともできない」と記している。つまり、ダーウィンは未知なる新大陸において、前に進むのも躊躇するほど興味深く感じられる事物に囲まれていたことになる。しかし、「その時」「その場所」には他にも多くの人がいたはずである。にもかかわらず、その瞬間を「至福のとき」と捉えることのできる人が存在する一方で、「退屈さ」以外に何も感じることができない人もいただろう。その落差はまさに「知的好奇心」の有無に由来する。少なくともダーウィンの辞書には「退屈」の二文字はなかったであろう。
歴史を振り返ると、新しい発明や発見した人、時代の変革をリードしてきた人たちは皆、志が高く好奇心旺盛な人ばかりだ。考えが「前向き」で行動が「ひたむき」である。電球を発明したエジソンは幼少の頃から好奇心旺盛で、算数の授業中には「1+1=2」と教えられても鵜呑みにすることができず、「1個の粘土と1個の粘土を合わせたら、大きな1個の粘土なのになぜ2個なの?」と質問したり、英語の授業中にも、「A(エー)はどうしてP(ピー)と呼ばないの?」と質問するといった具合で、授業中には事あるごとに「Why?(なぜ?)」を連発して、先生を困らせていたという。また、明治維新の指導者としてよく知られている吉田松陰は、西洋の先進文明に心を打たれ、盗んだ小舟で外国船に乗り込み渡航を試みたり、政府の理不尽な条約締結に反対し、弟子が止めるのもかまわず討幕を企てるなど波瀾万丈の人生を歩んでいる。いずれも失敗し、罪を問われ投獄されたが、開国という高い志と固い決意があったから、獄中生活も勉学の好機として驚くほど多くの本を読んだり、原稿を書くなど猛勉強している。萩にある松下村塾は松陰が主宰した小さな私塾であったが、身分の分け隔てなく塾生を受け入れ、明治維新を担った高杉晋作や伊藤博文などの多くの人材を世に送り出した。
いつの時代も、人は、汚れることを嫌い、格好悪い姿を世間に晒すことをいやがるものだが、世間はそれほど一人の人間を注視などしていない。しかし、頑張っている若者への眼差しは結構温かく、泥だらけになっても努力を続けている姿を美しいと賞賛し心から応援してくれるものだ。迷い・悩むときは『佇み・考える時間』も必要だが、時間をバネにして飛び立たなくては前に進めない。成長期の若者には、是非ともいろいろなものに興味関心を持ってチャレンジしていただきたい。自ら決断し、まず一歩を踏み出していただきたい。遠慮や尻込みは禁物だ。まして、「食べもせずに」「聴きもせずに」「読みもせずに」そして「登りもせずに」、その食材や音楽、書物、山の悪口を言ったり批判することは慎まなければならない。最悪なのは食わず嫌いである。時代や価値観がどんなに変わっても常にチャレンジャーであって欲しい。キーワードは『知的好奇心」である。