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2018年06月の記事

2018年6月12日

文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第165号

 

                   『教育改革って!?・・・』      

学校長 荒木 孝洋

 

 高校総体・総文が終わった。団体の優勝旗が3本(相撲・空手・ソフトテニス)、全国総体・九州大会に向けてもうしばらく精進が続く。一方、出場した多くの種目では、優勝には届かなかったものの、どの部も「プラス1」を目標に大健闘した。決勝戦で惜敗した女子ソフトボールの悔しさ、初めてベスト4に進出した女子ソフトテニスの歓喜、いずれも結果は違うが、「よく頑張った!」と褒めてやりたい。野球はひと月遅れの開催となるが、多くの3年生は自らの進路実現に向けて今日から受験勉強のスタートとなる。

 ところで、学校を取り巻く環境は急変、目まぐるしい教育改革提言に戸惑うばかり。例えば、アクティブラーニング。静かに座って教師の話を聞く“受動的”な学びでは先行き不透明な未来を生きていく力は育たないからと、主体的、対話的にして“能動的”な学びが求められている。ところが、この教授法は以前にも何度か試みられたが失敗している。第二次世界大戦後の約10年間続いた生活単元学習もそのひとつ。経験学習の原理に基づく指導方式として多くの学校で実践された。事物や現象についての知識そのものの習得よりも、課題や仕事の解決を通して、事物や現象を理解する能力や態度を育成することをねらいとしていた。しかし、教科の系統性が不十分で基礎学力の低下を招き教育の表舞台から排除されてしまった。言葉は違うが、アクティブラーニングはこれに似ている。学力の高い生徒は、自主的に調べ、考え、他人に教え、振り返ることができ、そのプロセスで知識の活用の仕方も知識も定着していくが、学力が低く、学習意欲も低い生徒には全く向かない教授法だ。受け身の生徒にとっては、結局何をやって良いか分からずに授業を終えることになる。学習のペースを児童生徒の自主性に任せると、それぞれの能力や意欲の違いで習熟に大きな差がつき、見た目には活発な授業が行われているようでも、それは一部の生徒、結果的に落ちこぼれの大量生産となる。そもそも、思考力は、現実的な文脈において、試行錯誤しながら自分のモノにしていくものだ。

 一方、英語教育の改革は別の意味で不安が多い。日本人は英語学習に長い時間をかけるが、外国人相手の交渉すらままならない。そこで、会話重視の教育が求められ、日本語能力も未熟な小学生に英語教育を導入し、大学入試ではTOEICなどの外部試験を採用することになった。そもそも、日本人が「日本語脳」を捨てて「英語脳」を獲得することは困難だし、今回の改革はどれほどの意味があるのだろうか。「やらないよりやった方がいい」というのは大人の逃げの論理。因みに、センター試験にリスニングが導入されて随分と時間が経つが、大学生の英会話力が伸びたという話は聞いたことがない。日本人にとって国語(日本語)力は思考と深く関連する。外国語は思考の結果の表現である以上、英語を学ぶ前に国語力に立脚した思考力の育成が肝要だ。しかし、英会話至上主義はそうした構図を忘れている。日本語の読解さえおぼつかない人は英語で何を話すのだろうか?。英語での挨拶や日常会話ならば一週間も練習すればできるのに・・・。

 社会的問題の原因を過去の教育に求め、教育が変われば社会が変わると信じたがる気持ちはわからないでもない。だが、形だけ海外の試みを導入しても副作用が起きたり、改革導入前に見られたメリットすら失われてただの「改悪」にならないか危惧する。これまでの教育がパーフェクトだとは誰も思っていないが、すべてダメだとも思っていない。日本の教育は社会の構成メンバーとしての大人を作っていくことにおいては素晴らしい成果を残している。先進国で一番住みやすい国はどこか?先進国で犯罪発生率の低い国はどこか?。学校は学力をつけるだけでなく、社会形成に大きく寄与していることを思い出したい。教育には包摂性が必要だが、アクティブラーニングは教育からこぼれ落ちる人を増やす轍を再び踏まないか?会話英語偏重は内省する習慣の喪失に繋がらないか?教育改革に猪突猛進する社会の中で、いったん立ち止まって未来のためにこそ過去を学び、人間や文化を深く洞察することの重要さを振り返りたい。