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2017年6月19日
文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第153号
『面受(めんじゅ)』
学校長 荒木 孝洋
昭和44年、私は大学を卒業すると同時に横浜の盲学校に着任した。もちろん、新幹線はないから、夜行列車「みずほ」に乗って12時間の長旅である。ゼミのI先生から「東京では、一流のものに触れる機会が多いから、金を惜しまずに出かけるように!」と、餞(はなむけ)()の言葉を戴いた。美術館、音楽会、演劇鑑賞、講演会、神田の古本屋、・・・ナケナシの給料を叩((はた))いてせっせと通った。菅原洋一や由紀さおりのリサイタル、日フィルのコンサート、上野美術館、末廣亭の落語、有名人の講演会・・・etc。休日には丹沢山のハイキングや富士登山、国会議事堂周辺での安保反対デモも見に行った。横浜関内駅裏のドヤ街と言われる食堂で日雇い労務者と一緒に安酒を煽ったことも思い出す。肉声を聞き、存在を感じ、その人やその集団と同じ時間を過ごしたこと、キツイ思いをして達成した苦労など、50年経った今でも、心の奥の襞に染みこみ新鮮な形で宿っている。原体験は手間暇かかるが、その人の表情や息遣い、肉声を通して聞こえた言葉には全身で感じるものがあり、時間と場所を共有したからこそ腑に落ちることも多い。
ところで、人工知能の開発が進み、インターネットがあらゆるものを結びつけ、生活の効率や利便性を高める機能が次々と生まれている。人により使いこなせる度合いは違うが、自分だけ参加しないという選択は難しくなってきた。「コンピュータにできることはコンピュータに任せ、人間は人間にしかできないことに時間をかければ、人間の能力は向上し社会は発展する」と言われるが、果たしてそうだろうか? 利便性の裏側には失っていることも多い気がする。例えば、ラインやメールの普及は連絡を容易にしたことは確かだが、簡単に送・受信できるため、手紙を書いたり対面して会話するなどの習慣や能力は気づかないうちに萎えている。また、ツイッターなどで発信された情報はコンピュータに蓄積され、いつでも誰でも検索できる利便性はあるが、読んでもらうために偽情報を流す人も現れ、発信された情報の信頼性がなくなっている。また、読む方も自分の考え方に合うものや興味あることだけ探す傾向になる。そうしているうちに、頭の動きが検索型になってしまい、わからないことがあれば検索し直ちに答えを見つけようとする思考形態に陥っていく。つまり、連想して考えたり持続して考えることが苦手になり、都合の悪い意見は排除してしまう性癖が身についてしまう。学校教育で最も大切にしている「相手のことを思いやる、相手の意見を聞く」教育の否定でもある。
気がつくと、後戻りできないネットの広がりだが、立ち止まって検証することはできる。特に、情報機器の低年齢化は、我が国の未来にとって大変困った事態である。ノーベル賞を受賞した日本人の多くは地方出身者であるが、知的好奇心旺盛な青少年期を過ごした方が多いと聞く。幼少期は、純粋で多感であり、「何で?」を連発しながら成長していく年齢である。グローバル化していくこれからの時代、英語力やプレゼンテーション力、コミュニケーション力は益々重要になるだろうが、いずれも手間暇かけて獲得した知識やまどろっこしい思索の産物だ。仏教に「面受」という言葉があるが、原体験はこれに近い。「面受」のもともとの意味は、面と向かって口伝えに仏の教えを伝えることだそうだが、このことは仏教に限ったことではない気がする。世界の情報をインターネットで調べたり、CDで音色のいい音楽を聴くこともできるが、実際にその人に会ったり、生の歌声や主張を聞く体験はとても意味があることだと思う。幼少期の自然体験や友達との戯れもその類だ。授業料は少し高くつくが「経験は最良の母」とも言われる。せめて高校生ぐらいまでは「さらばスマホ!」、廻り道を選択して欲しい。読書や体験、人との交わりを通して人間力を高めたいものだ。