学校法人 文徳学園 文徳高等学校・文徳中学校

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2019年09月の記事

2019年9月11日

文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第177号

                                           

                    『ノーアウト1塁』      

                                                                                                     学校長 荒木 孝洋

 

 相撲や野球ファンが“巨人・大鵬・卵焼き”と揶揄された時代(1960年代)に育った私は大の野球ファンである。プロ野球も大詰め、残り10試合前後となり、セ・パ共に興味津々たる優勝争いが続いている。テレビを見ていると、若手の活躍が目立つ。物怖じしない溌剌たるプレーに感動する。入団2年目の九学出身の村上選手もその一人。彼が所属するヤクルトは優勝争いには加われそうにもないが、鋭いバットの振りが魅力だ。ホームラン・打点の両部門でトップを争い新人王の有力な候補である。熊本出身だけに応援にも力が入る。『ガンバレ村上!』

 ところで、イチロー選手が引退してもう半年近くもたってしまったが、記者会見での彼の発言は、いつも含蓄ある言葉が多く啓発される。引退の記者会見で「野球の魅力とは?」と問われて、彼は「団体競技なんですけど、個人競技なんです。それが面白い。個人として結果を残さないと生きていくことができない。本来はチームとして勝っていけば、チームのクオリティは高い。でも決してそうではない。あと同じ瞬間がないこと。必ずどの瞬間も違う。これは飽きが来ないですね」という回答。この言葉を聞いて、野球は教職にも当てはまるのでは、と感じた。学校は外から見ればひとつの組織体であり「文徳高校はこんな学校だ」と評価を受けるが、普段の教育活動の中心となる授業は、教室を場とした各先生たちによる個人の営みで成り立っている。野球では、ピッチャーとバッターは打つか、討ち取るかの壮絶なバトルだが、授業は真逆、同じバトルでも、先生はどう教えたら生徒が理解できるかの真剣勝負である。しかし、野球との共通点も多い。同じ先生が同じ単元を同じ学年に教えても、教室での生徒とのやりとりには同じ瞬間は表れないし、試験をすれば結果にも差が出る。それでも、教師は良い授業をしようと思うから、生涯、創意工夫しながら試行錯誤を繰り返す。それは、常に自分との戦いをしてきたイチロー選手の心境にも似ている。

 時折、大谷選手を見たくて大リーグのBS放送を見るが、米国の野球は近年データ重視で、極端な守備シフトを敷く試合が目立つようになった気がする。戦法も変化しているようだ。イチロー選手はこの現象について、「大リーグの野球は近年頭を使わなくてもできる野球になりつつある。データ重視のこの流れは当分止まらないでしょう。本来、野球というのは、頭を使わないとできない競技なんですよ。でもそれが違ってきているのは、どうも気持ち悪くて。日本の野球は頭を使う面白い野球であって欲しいと思っています。大切にしなきゃいけないものを大切にしてほしいと思います」と答えています。近年、教育の場にもタブレットや電子黒板が導入され、授業のスタイルがスマートに変化してきている。しかし、スポーツも教育も最後は人と人との対決やプロセスが肝要だ。人工知能(AI)をどのように活用しようと、最後は総合的な人間(教師)の判断で勝負や成果が決まるのではないか。フェイスtoフェイスが軽んじられ、スマートな文明の利器に振り回されていると、必ずしっぺ返しを食うことになる。

 『ノーアウト1塁』、送りバントかヒットエンドランか?、はたまた盗塁か?ボールを投げる瞬間まで駆け引きが続く。この緊張感がなんともいえないのが野球の醍醐味。授業もしかり。答を教えるだけが授業ではない。「先生が次に何をしゃべるか?」と生徒は固唾を飲んで待ち、先生は、「生徒がどんな答えを提示するのか?」とワクワクしながら回答を待つ。スポーツも勉強も“Simple is best”。野球ならボールとバットとグローブがあれば十分、教育も同じ、紙と鉛筆と言葉があればOK。過度なデータ重視やエビデンス重視には、落とし穴があることを忘れてはならない。

2019年9月2日

文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第176号

                                           

                  『多様化という名の画一化』    

                                                                                                        学校長 荒木 孝洋

 

 今年の夏も暑かった。連日30度を超える茹だるような熱帯夜にクーラーはフル稼働。一転、ここ数日の長雨は秋到来の予感、火照った体が一気に平熱に戻った。佐賀平野では豪雨による被害も続出しており、気候の変動におののくばかりだ。学校では26日から二学期が始まった。始業式は、21年ぶりにインターハイで優勝した相撲部の報告会から始まった。全校生徒から万雷の拍手で祝福され、キャプテンの草野君が「チームワークと皆さんの声援のお陰で優勝できました」とお礼のメッセージを述べ全校生徒の応援に謝意を表した。相撲部は、この夏、十和田全国選抜大会でも優勝し、8月末の宇佐大会の連覇も目指しています。

 ところで、2021年度大学入試から選抜方法が大きく変更される。変更点は①英語の民間試験の導入②共通テストの記述式の導入③調査書重視の3点である。そもそも、今回の入試制度改革は「学力の3要素(◆知識と技能◆思考力・判断力・表現力◆多様な人々と協働して学ぶ態度)を、どのような試験方式で入学するにしても多面的・総合的に評価する」ことを目的として提言されたものである。しかし、『多面的・総合的』と言えば聞こえはいいが、その内実は、誰もが共通テストを受け、誰もがマークシート対策に加えて記述式対策をしなければならなくなり、誰もが英語の民間試験の受験料を払わされ、誰もが調査書の記載内容に在学中から神経を使うことになる。これは、むしろ入学選抜方法の多様化ではなく、多様な選抜方法をすべての受験生に課すことを一律に強いる典型的な画一化であるといえる。しかも、今回の改訂については、提言された当初から疑問が彷彿している。(英語の民間試験については)スピーキングテストを受験生に一律に課すべきかどうか?視点が異なる業者テストを同一評価基準で差異を判断できるのか? (記述式共通テストについては)数十万人の規模になる記述式問題の採点を誰がどうやって公平に、しかも短期間に行うのか?(調査書の充実については)高校入試の内申書選抜が、中学生の生活全般を受験に結びつけてしまうことからさんざん批判されてきたことを全く顧みた形跡がない。個人情報の大量流出の危険性も大きいなどである。

 私感だが、現在実施されているセンター試験は練られた良問が多く変革の必要性を全く感じない。例えば、英語の長文問題は文法力がないと解けないし、むしろ、これからは外国との交流もオーラルよりメールでの交信が主流となるであろうから、グローバル化にも十分対応できる問題だと思う。高校教育での上滑りのオーラル偏重は学力低下を招き、単語も知らず、構文のルールもわからない生徒を増やすだけで英語教育にはマイナスになるだろう。一方、数学も論理的思考が問われる出題が盛り込まれており勘では解けない。あえて記述問題を織り込む必要はどこにもない。また、高校での活動実績を表記した調査書重視に至っては、現在も一部の入試を除いてほとんど活用されていないのが実情である。それをさらに詳しい『eポートフォリオ』作成を生徒に課そうとする意図は何なのかわからない。子供たちが自分に都合の悪いことを書くはずがなかろうに・・・。

 本来、大学入試は大学で学ぶ力があるかどうかを測るのが目的であり、各大学は実施時期や試験内容に制限はあっても、様々な入試方法で入学者を選抜すればよいはずだ。40年前の東京農大の推薦入試を思い出す。(受験した生徒の話だが)俺は生物(ヤッター俺の得意な理科だ!)、隣の生徒は国語、その場で配られた問題を解く。要項には「総合試験」と表記されていた。入試を全国一律の方式にしなければならない理由はどこにもない。試験科目は、大学で設定すればいいし、記述式を主体とする選抜があってもそれでいいと思う。もちろん、会場で初めて試験科目がわかるこんなアバウトな試験もOKだ。小泉純一郎さんではないが、「人生イロイロ!入試もイロイロ!」。統一性のない試験だから模試結果に振り回されることもないだろう。かえって、授業中心の高校教育が充実するような気がする。多くの大学関係者も変革すべきは入試ではなく、教育内容だとうすうす感じているはずだ。