学校法人 文徳学園 文徳高等学校・文徳中学校

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2019年12月18日

文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第180号

 

                           『言葉が痩せる』      

                                                                                                                学校長 荒木 孝洋

 

 師走12月、月めくりのカレンダーも最後の一枚となった。一年を振り返り、往く年に別れを告げ新しい年を迎える準備をする時期である。学校の玄関には今年も文徳会(保護者会)とそのOB・OGの皆さんのご厚意によって門松が飾られた。文徳会では、子どもの健全な成長を願い「ドリームサポーター」をスローガンにした活動の一環として平成22年から門松制作が続けられている。

 ところで、あるTV番組で世間話のようなニュースを聞いた。プロ野球の某球団の監督が自チームの応援団に、打席へ向かう選手への応援歌は小学生も歌うので「お前でなければ誰が打つ」の「お前」を別の文言にして欲しい、と要請したのだという。これについて同番組が町で行ったインタビューでは、親近感や一体感を持って激励するには「お前」がいい、という意見ばかりだったそうだ。監督の意見にも、町の人たちの感覚にも一理あるが、言葉には多くの意味があり、話の前後関係や使う場面などによってニュアンスが変わるから言語を排除するのではなく、時と場合によって適切な使い方をする必要があると考える。 

 最近、日常使われる言葉の種類が、子どもたちの間で、というより社会全体で減る傾向にある気がする。仕事でのやりとりが電話や対話からメールに変化したことも要因のひとつであろう。メールは話し言葉のような気安さも含みながら、短文が要求されるから語彙が少なくてすむ。仕事ならそれでよいだろうが、どうも日常会話までメール風になっている人が増えているようで気になる。元来、思考は頭の中で言葉を駆使しながら行われるから、乏しい語彙力ではそれを通した狭い社会しか見ることができないことになる。つまり、言葉の省エネが過ぎると思考が単純化し人生の劣化を招くことになる。「言葉は身の文(あや)」という諺があるが、話し言葉はその人の人格や品位を表すという意味である。若い人の中には「すごい」「やばい」「まじ」「かわいい」などと単語を連発する人を見かけるが、そればっかりでは人格まで浅薄に見えてしまう。

 ところで、日本語の90%を理解するために必要な語彙数はおよそ一万語と言われている。英語なら3000語、スペイン語やフランス語は2000語足らずでもってその言語を90%理解できるそうだ。つまり、日常のコミュニケーションを円滑に進めたり文章を読んだりするために、私たち日本人はスペイン人の5倍の語彙を持たなくてはならないことになる。しかも、日本語には平仮名やカタカナ、漢字があり、それらを駆使して使うのはそう容易(たやす)いことではない。例えば、漢字の『令』を命令の意味に限定して新元号を批判した国会議員がいたが、『令』には「よい」とか「清らかで美しい」といった意味も含まれているのにそれを無視して使うと言葉が痩せてしまう。単語の連発や誤訳でもって結論へと進む議論などは分かりやすいかもしれないがどこか不気味である。また、自己賛美に単純化した言葉や憎悪に特化させた言葉を繰り返して人々を反射的な反応へと誘導する人もいるから、フェイクニュースを見抜く力も身につけなくてはならない。「たかが言葉、されど言葉」、言葉は大きな力を持つことを肝に銘じておきたいものだ。

 では、語彙力を高めるにはどうしたらよいのだろうか?・・・映画やドラマや演劇を見るとか落語を聞くのもいいが、最も手っ取り早く適切な方法は活字を読むことだ。国際学力調査(PISA)でも、小説や伝記、ルポルタージュ、新聞など幅広く読んでいる子どもの読解力は高いという結果が出ている。本に限らず、インターネットの記事でも新聞や雑誌など活字媒体に触れることが大切だ。そして、さらに大切なことはアウトプット、使わなければ語彙力は増えない。覚えた言葉をどんどん使って教養を高めたいものだ。「語彙が豊かになれば、見える世界が変わる」とも言われる。語彙を増やして人生を豊かで楽しいものにしたいものだ。

2019年11月11日

文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第179号

 

                  『摩擦がないと字は書けない』  

   学校長 荒木 孝洋

 私が生まれた昭和21年は終戦直後の混乱と物不足の時代。夢多いはずのピッカピカの小学生の頃、今のように新しい教科書が無償で渡されることもなかったし、購入した教科書は妹や弟に譲るから折り目もつけないほど丁寧に扱った。もちろん、教科書に字を書き込むなどもってのほかである。ガサガサして書けない鉛筆、今は使っていないざらざらの黒いちり紙のようなノート。しかし、それが当たり前だと思って大事に使った。書けばノートは破れ、鉛筆は舐めないと色がつかない代物だった。習字の練習には新聞紙を使い、チラシの裏紙を使って算数の計算をした。給食もなく、野菜の煮物と卵焼きに漬け物の質素な弁当を持参した。友達との(いさか)いが起こっても、その都度、先輩は大声で(たしな)めたり仲裁して仲直りさせてくれた。我慢する、あきらめる、食べものが自由に食べられない、そんなナイナイ尽くしの混迷した日常生活の中で、自分で生きる道を考え、自分で行動し、自分で生きていくことが求められたのが戦後の日本である。

 その後、物不足が少しずつ解消し国民に多くの自由が保証されるようになった。さらに時が流れ、1980年代になると、自由な風潮を「何でもOK」と曲解し、バイク暴走、喫煙、深夜徘徊などと自由奔放に振る舞う生徒や、「長髪禁止」の校則見直しなどを訴えて授業をボイコットする生徒が現れた。テレビでは金八先生が登場し、ある芸能人が自分の子供との戦いを描いた「積み木くずし」という本が売れた時代だ。この時期に、文科省は指導要領の見直しを行い、所謂、「ゆとり教育」というスローガンの新学力観を提示した。学校5日制が始まり、各教科の指導内容が精選され授業時間も削減され、学習状況の評価も知識の理解から学習の態度にシフトした。教師も指導者から支援者へと転換し、生徒の多様性を尊重し、生徒の自主性・主体性を尊重する教育こそ素晴らしいと謳うように変化していく。しかし、『自主』とか『多様性』という言葉は耳障りのいいキャッチフレーズだが、「自分の責任で将来を決めろ!」というメッセージだから自己責任が発生する。しかも、個人の主体性が尊重されるだけであって、自らの想いをどのように実現していくかは誰も教えてくれないから、結果として、不満や不足が増幅し、時間の経過と共に“長いものに巻かれろ”といった依存心の強い子供や学校を忌避する不登校の子どもが増えていくことになる。

 振り返ると、あの1980年代の子供たちのエネルギーは、なぜあんなにも大きく、強かったのだろうか?・・・推測するに、物心両面において(いびつ)に感じる不自由があったから自由に対する意欲が高まっていったのではなかろうかと思う。表面がツルツルした紙に字は書けないが、摩擦があるから字が書けるのと同じように、自由を獲得するには幾らかの不自由という摩擦が必要ではないのだろうか。制限された不自由の中で学び方を習得し、また、社会や集団生活のルールを形式から学び、自分の好きにしたい時にも自分を超えた何かに制限される、そんな経験をして初めて一人の人間になる。反抗期に、子どもが親を無意識に否定し親から自由になりたいと思うように、不自由であるからこそ自由になりたいという意欲が生まれ、自分で工夫する知恵が芽生えてくるのではなかろうか。

 本校には中学生もいるが、中学生は高校生に比べてその成長は日替わりメニューのようにめざましい。授業中友達にちょっかいを出して勉強の邪魔をしたり、友達との諍いで暴れては窓ガラスに衝突する生徒も、失敗を繰り返しながら学年が上がるにつれて見事に変身する。2・3年生になると、駄々をこねる1年生を見て「俺たちもあんな時期があったよナ!」と実に冷静である。周りの友達や先生から諫められたり励まされながら成長していく姿は今も昔も変わらない。リモコン・センサー・自動運転など利便性は次々と獲得してきたが、子どもの成長に必要な大切な何かが失われている気がする。それは、デッパリをこする砥石と悶々とした試行錯誤の時間である。大人の誰もが、若い時は「ツマズキ」を通して成長してきた経験を持っているはずなのに・・・叱ること・見守ることが下手になったようだ。怒髪天を衝く叱責の声、失敗を優しく見守る温かいまなざしはどこに消えたのだろうか?いずれも物質文明にドップリと浸かりきった日本人の劣化現象かもしれない。台風被害の復興・復旧と共に人間らしいゆとりある心と温かみのある言葉の再構築も急務である。

2019年10月25日

文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第178号

 

                                      『黒船襲来』          

                                                                                                        学校長 荒木 孝洋

 10月になったというのに、関東から北日本にかけて猛烈な台風が襲来し大混乱だ。15号は暴風雨を伴って千葉を襲い、19号は関東から北陸にかけて河川が決壊したり越水したりして大水害をもたらした。テレビの報道でしか知ることができないが、亡くなられた方が80名を越えるなど被害甚大で気の毒になる。被災された方々の心中と被害の惨状を思うと心が痛むばかりだ。熊本地震でもそうだったが自然災害の痕跡は惨すぎる。被災地の復興・復旧をただただ祈るばかりだ。

 ところで、大学入試の改革も突風を伴った台風襲来の様相で、学校現場はその対応にアタフタしている。英語の民間試験の導入という黒船襲来におののいているのだ。大学の共通テストは昭和54年の共通一次試験から始まり、その後、改善を加えながら大学入試センター試験に移行し、安定した選抜方法として広く受験生にも受け入れられている。問題の難度も程良く高校教育とマッチングし公平な試験として受験生からも好評であったのに・・・なぜ変える必要があるのだろうか?そもそも、この改革は高大連携の在り方(大学教育・高校教育・高大接続の大学入試)の3つの改革から始まったのだが、いつの間にか大学入試改革のみに矮小化されたから混乱を招いているのだ。グローバル化に対応し「英語のスピーキング力を強化」の必要性は理解できるが、それは高校教育や大学教育の在り方を改革すれば解決するのに・・・全員が民間試験を受けなければならないような愚策なんてトンデモナイ発想だ。

 提示されている「大学共通テスト」(新テスト)は現在の高校2年生が受験する2021年入試から実施される。改革の骨子は、国語と数学に記述式が加わることと、英語には民間試験が導入されることだ。国語と数学の記述問題の採点の公平性については一定の改善策が提示されているが、英語の民間試験については課題があまりにも多すぎてあきれ果てるばかりだ。全国公立高等学校校長会や私学の中高連、さらには現役の高校生からも時期尚早との声が発せられ、反対の声が彷彿しているが、文科省は着々と実施に向けた施策を進めており、それに対して、学校では泥縄式に対応している。今回の英語民間試験導入の問題点を整理してみた。

 【公平性が確保されるか?】英語の検定には英検やTOEFLをはじめとして様式も問題内容も異なる試験が多数ある。今回の改定案ではどの試験を受けるかは受験生が選択して受験することとなっている。そして、個人の成績はSEFRという目盛りでA1からC2までの6段階に分類され、IDカードを通して大学に送付される。そもそも、別々の試験を受験した成績を比較して学力評価を公平に行うことが可能なのだろうか?

 【高額の受験料】受験料は資格・検定試験や試験のレベルによって大きく異なる。現在提示されている金額は5800円から2万3500円。最も高い受験料の試験を2回受験すると5万円近くになる。さらに、宿泊を伴う受験生は受験料に加えて宿泊費も発生することになる

 【不透明な試験への不安】①試験会場も試験日も未定。英検は熊本市と人吉市で、GTECは熊本市と八代市で行われることがつい先日決定したが、実施日は未公表だから次年度の学校行事も決められない。②大学によって求める英語力が異なり、出願資格なのか、入試の成績に加味するのか千差万別の試験である。まだ受験校を決めていない生徒にとっては、どのレベルの試験を受けたらよいのか迷うだろうし、試験によっては不合格であれば未受験と同じ扱いになる。そんな中、すでに英検は申し込みが始まっている。

 そもそも入試に民間試験が必要なのだろうか?。受験勉強によりスピーキング力が瞬間的には上達するかもしれないが、使う機会のない人の英語力は3ヶ月もすれば元の木阿弥、すっかり忘れてしまうだろう。現に、英語のヒアリングテストが始まってから日本人の英会話能力が極端に向上してという報告は聞いたこともない。人間は必要に迫られれば必死に勉強し英語を喋れるように励むだろうし、むしろ、高校時代は文法などの基礎力をきちんと身につけておく方が、後々よっぽど役に立つのではなかろうか。文法や構文も理解できていない英会話は子どものよちよち歩きと一緒、喋るだけならオームでもできる。

2019年9月11日

文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第177号

                                           

                    『ノーアウト1塁』      

                                                                                                     学校長 荒木 孝洋

 

 相撲や野球ファンが“巨人・大鵬・卵焼き”と揶揄された時代(1960年代)に育った私は大の野球ファンである。プロ野球も大詰め、残り10試合前後となり、セ・パ共に興味津々たる優勝争いが続いている。テレビを見ていると、若手の活躍が目立つ。物怖じしない溌剌たるプレーに感動する。入団2年目の九学出身の村上選手もその一人。彼が所属するヤクルトは優勝争いには加われそうにもないが、鋭いバットの振りが魅力だ。ホームラン・打点の両部門でトップを争い新人王の有力な候補である。熊本出身だけに応援にも力が入る。『ガンバレ村上!』

 ところで、イチロー選手が引退してもう半年近くもたってしまったが、記者会見での彼の発言は、いつも含蓄ある言葉が多く啓発される。引退の記者会見で「野球の魅力とは?」と問われて、彼は「団体競技なんですけど、個人競技なんです。それが面白い。個人として結果を残さないと生きていくことができない。本来はチームとして勝っていけば、チームのクオリティは高い。でも決してそうではない。あと同じ瞬間がないこと。必ずどの瞬間も違う。これは飽きが来ないですね」という回答。この言葉を聞いて、野球は教職にも当てはまるのでは、と感じた。学校は外から見ればひとつの組織体であり「文徳高校はこんな学校だ」と評価を受けるが、普段の教育活動の中心となる授業は、教室を場とした各先生たちによる個人の営みで成り立っている。野球では、ピッチャーとバッターは打つか、討ち取るかの壮絶なバトルだが、授業は真逆、同じバトルでも、先生はどう教えたら生徒が理解できるかの真剣勝負である。しかし、野球との共通点も多い。同じ先生が同じ単元を同じ学年に教えても、教室での生徒とのやりとりには同じ瞬間は表れないし、試験をすれば結果にも差が出る。それでも、教師は良い授業をしようと思うから、生涯、創意工夫しながら試行錯誤を繰り返す。それは、常に自分との戦いをしてきたイチロー選手の心境にも似ている。

 時折、大谷選手を見たくて大リーグのBS放送を見るが、米国の野球は近年データ重視で、極端な守備シフトを敷く試合が目立つようになった気がする。戦法も変化しているようだ。イチロー選手はこの現象について、「大リーグの野球は近年頭を使わなくてもできる野球になりつつある。データ重視のこの流れは当分止まらないでしょう。本来、野球というのは、頭を使わないとできない競技なんですよ。でもそれが違ってきているのは、どうも気持ち悪くて。日本の野球は頭を使う面白い野球であって欲しいと思っています。大切にしなきゃいけないものを大切にしてほしいと思います」と答えています。近年、教育の場にもタブレットや電子黒板が導入され、授業のスタイルがスマートに変化してきている。しかし、スポーツも教育も最後は人と人との対決やプロセスが肝要だ。人工知能(AI)をどのように活用しようと、最後は総合的な人間(教師)の判断で勝負や成果が決まるのではないか。フェイスtoフェイスが軽んじられ、スマートな文明の利器に振り回されていると、必ずしっぺ返しを食うことになる。

 『ノーアウト1塁』、送りバントかヒットエンドランか?、はたまた盗塁か?ボールを投げる瞬間まで駆け引きが続く。この緊張感がなんともいえないのが野球の醍醐味。授業もしかり。答を教えるだけが授業ではない。「先生が次に何をしゃべるか?」と生徒は固唾を飲んで待ち、先生は、「生徒がどんな答えを提示するのか?」とワクワクしながら回答を待つ。スポーツも勉強も“Simple is best”。野球ならボールとバットとグローブがあれば十分、教育も同じ、紙と鉛筆と言葉があればOK。過度なデータ重視やエビデンス重視には、落とし穴があることを忘れてはならない。

2019年9月2日

文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第176号

                                           

                  『多様化という名の画一化』    

                                                                                                        学校長 荒木 孝洋

 

 今年の夏も暑かった。連日30度を超える茹だるような熱帯夜にクーラーはフル稼働。一転、ここ数日の長雨は秋到来の予感、火照った体が一気に平熱に戻った。佐賀平野では豪雨による被害も続出しており、気候の変動におののくばかりだ。学校では26日から二学期が始まった。始業式は、21年ぶりにインターハイで優勝した相撲部の報告会から始まった。全校生徒から万雷の拍手で祝福され、キャプテンの草野君が「チームワークと皆さんの声援のお陰で優勝できました」とお礼のメッセージを述べ全校生徒の応援に謝意を表した。相撲部は、この夏、十和田全国選抜大会でも優勝し、8月末の宇佐大会の連覇も目指しています。

 ところで、2021年度大学入試から選抜方法が大きく変更される。変更点は①英語の民間試験の導入②共通テストの記述式の導入③調査書重視の3点である。そもそも、今回の入試制度改革は「学力の3要素(◆知識と技能◆思考力・判断力・表現力◆多様な人々と協働して学ぶ態度)を、どのような試験方式で入学するにしても多面的・総合的に評価する」ことを目的として提言されたものである。しかし、『多面的・総合的』と言えば聞こえはいいが、その内実は、誰もが共通テストを受け、誰もがマークシート対策に加えて記述式対策をしなければならなくなり、誰もが英語の民間試験の受験料を払わされ、誰もが調査書の記載内容に在学中から神経を使うことになる。これは、むしろ入学選抜方法の多様化ではなく、多様な選抜方法をすべての受験生に課すことを一律に強いる典型的な画一化であるといえる。しかも、今回の改訂については、提言された当初から疑問が彷彿している。(英語の民間試験については)スピーキングテストを受験生に一律に課すべきかどうか?視点が異なる業者テストを同一評価基準で差異を判断できるのか? (記述式共通テストについては)数十万人の規模になる記述式問題の採点を誰がどうやって公平に、しかも短期間に行うのか?(調査書の充実については)高校入試の内申書選抜が、中学生の生活全般を受験に結びつけてしまうことからさんざん批判されてきたことを全く顧みた形跡がない。個人情報の大量流出の危険性も大きいなどである。

 私感だが、現在実施されているセンター試験は練られた良問が多く変革の必要性を全く感じない。例えば、英語の長文問題は文法力がないと解けないし、むしろ、これからは外国との交流もオーラルよりメールでの交信が主流となるであろうから、グローバル化にも十分対応できる問題だと思う。高校教育での上滑りのオーラル偏重は学力低下を招き、単語も知らず、構文のルールもわからない生徒を増やすだけで英語教育にはマイナスになるだろう。一方、数学も論理的思考が問われる出題が盛り込まれており勘では解けない。あえて記述問題を織り込む必要はどこにもない。また、高校での活動実績を表記した調査書重視に至っては、現在も一部の入試を除いてほとんど活用されていないのが実情である。それをさらに詳しい『eポートフォリオ』作成を生徒に課そうとする意図は何なのかわからない。子供たちが自分に都合の悪いことを書くはずがなかろうに・・・。

 本来、大学入試は大学で学ぶ力があるかどうかを測るのが目的であり、各大学は実施時期や試験内容に制限はあっても、様々な入試方法で入学者を選抜すればよいはずだ。40年前の東京農大の推薦入試を思い出す。(受験した生徒の話だが)俺は生物(ヤッター俺の得意な理科だ!)、隣の生徒は国語、その場で配られた問題を解く。要項には「総合試験」と表記されていた。入試を全国一律の方式にしなければならない理由はどこにもない。試験科目は、大学で設定すればいいし、記述式を主体とする選抜があってもそれでいいと思う。もちろん、会場で初めて試験科目がわかるこんなアバウトな試験もOKだ。小泉純一郎さんではないが、「人生イロイロ!入試もイロイロ!」。統一性のない試験だから模試結果に振り回されることもないだろう。かえって、授業中心の高校教育が充実するような気がする。多くの大学関係者も変革すべきは入試ではなく、教育内容だとうすうす感じているはずだ。