学校法人 文徳学園 文徳高等学校・文徳中学校

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2018年2月23日

文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第161号

 

                        『電子黒板とタブレット』    

学校長 荒木 孝洋

 

 自動販売機が日本中どこにでも置いてある。街の中はもちろん田舎の人通りの少ない家屋にも据え付けられ、夜間はその煌々たる灯りが外灯の役割を果たしている。販売品目の種類も多く、飲み物だったら、お茶に水、コーヒーにジュースなど多彩で、しかも温かいモノと冷たいモノがボタンひとつで選択できる。実に便利な代物を発明したものだと感心する。朝、目覚めて「まずはお茶」から始まる私だが、そんな家庭も減ったと聞く。ペットボトル片手の若者の姿が当たり前の光景になってきた。因みに、世界初の自動販売機は、古代エジプトの寺院に設置された聖水を販売するための装置と言われている。硬貨を投入すると、硬貨の重みで栓が開き、蛇口から水が出る構造だったそうだ。また、自動販売機は、人手を介さずに商品を購入することができる機械だから、販売者の側から見ても、狭い敷地に多くの販売機を設置できて人件費も削減できるなどメリットが大きい。ロボットの一種だ。

 一方、学校でも教室の風景が一変しつつある。チョークと黒板に代わり電子黒板とタブレットの導入が急速に進んでいる。熊本市の中学校では4月から全校に配置されることになるそうだ。ICT教育のメリットは映像や音声を利用するからわかりやすいし、五感に訴えるから楽しく学ぶことができることだ。例えば、タブレットを使うと、図形を反転させることもできるし、立体の切り口も瞬時に表現できる。しかも、タブレットに書き込まれた生徒の解答を電子黒板に映し出すと、いちいちチョークで黒板に書く必要もないので効率的に授業が進められる。スマホを自由自在に操る子供にとっては何の違和感もない授業である。実験校での検証でも好評のようだが・・・・。この光景は子どもたちが一人一人自販機を持ってるようなものだ。タブレットを使うと、図形の空間把握ができない生徒でもボタンひとつで展開図を手に入れることができる。その姿はまさに自動販売機の操作に似たり。

 しかし、利便性の裏には影もある。ICT教育の先進国である韓国ではその弊害が幾つか指摘されている。列挙すると、①子供の学力に目立った変化は現れていない(学力向上)②資料を検索するとすぐに答えが出るから、問題解決能力が落ちてくる③読書量が減る④能動的に学ぶ姿勢が失われる⑤基礎力が身につかず、知識がうろ覚えになる⑥飽きが来る⑦マルチスクリーンは子どもたちの注意力を散漫にする・・・。

 元来、学校教育では、学問の基礎・基本となる知識の修得と試行錯誤の体験を通して思考力を培うのが大きな目標であったはずだ。画像と音声は刺激的で興味関心を醸し出すには格好の道具だが、思考を深化するにはそぐわない。立体図形を頭の中に描き断面図を想像するのは手間暇かかることだが、その悩ましい試行錯誤の時間が思考力を高める。私の持論だが、学校でやるのは「読み・書き・ソロバンとそれを操る試行錯誤の繰り返し」それで十分と考える。便利さは思考力を奪う、悩み苦しむ時間が多いほど人間の脳は成長する。意見発表や集団討論だけがアクティブラーニングだと思い込んでいる人がいるようだが、それは小学校までの学び。口を動かすだけでは脳は活性化しない。教材が難しくなればなるほど、考える時間を増やすことで脳はアクティブに活動する。吉本劇団では、師匠は劇団員に何も教えないそうだ。自学自習、「分らなかったり、思い浮かばないときは、壁の前でウロウロしろ。必ず出口が見えてくる」と。【学習=試行錯誤】ということのようだ。便利さや効率ばかり追い求めていると、思考力は必ず劣化していく。学校だけでなく政界も経済界も、見守る事・待つことが下手くそになった。日本を守るのは武器ではない、理性と精緻な思考力だ。劣化が心配。

2018年1月19日

文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第160号

 

                        『ブラック部活動』       

学校長 荒木 孝洋

 

 長時間労働による過労死が発端となって「働き方改革」が新聞やテレビで報道されている。学校も例外ではなく、特に部活動についてはブラック部活動としてさまざまな視点での指摘がある。このことについて、先日スポーツ庁の有識者会議が行われ、中学校の部活動指導についてのガイドラインが示された。その概要は①休養日は週2日以上で、平日は1日、土日で1日②長期休業中は部活動も長期の休養日を設ける③1日の活動時間は平日2時間、休日3時間程度④科学的トレーニングの導入⑤スポーツクラブなどと連携して地域のスポーツ環境整備を進める⑥学校が参加する大会数の上限を定める。以上の提言だが、④⑤⑥の実現には経費と各種団体の理解が必要でハードルは高い。結果として、見かけ上の活動時間は減るが『自主練習』が増えて長時間部活の実態は変化がなさそうな気がする。

 そもそも学校の部活動は時間外にしか設定できないから、指導者が教員であれば時間外勤務となるのは当たり前である。長時間労働を解決したいのであれば、指導者を外部に求めるか部活動の在り方を根本的に変えるしか解決策はない。すでに、熊本市内の小学校では社会体育に移行しつつある学校もあるようだ。確かに教師の負担は減るだろうが、子供の実態に即した改善策になるのだろうか?例えば、活動場所が遠隔地になり送り迎えができない家庭の子供は参加できないことや、指導者の都合で活動が夜間になるなど新たな課題も出ており、しかも、遊び盛りの低学年の子供は放課後でも運動場や体育館が使えないとなれば、益々スポーツ人口の減少が加速しそうな気がする。

 そんなことを考えているとき、プロ野球DENAの4番バッター筒香選手の談話「野球離れ」の記事が目にとまった。抜粋して紹介する。「楽しいはずの野球なのに、子どもたちは楽しそうに野球をやっていない。その原因は3つある。まず、勝利至上主義。『勝たなあかん』『勝たないと意味がない』といった言葉が子供を萎縮させている。次に、子どもたちが、指導者の顔色を見て、『ここで打たなかったら怒られる』、『ここでエラーしたら怒られる』とビクビクくしながらプレーしている。3つ目は、答えを親や指導者が与えすぎるので、子どもたちは指示待ちの行動しかできない。しかも、指導者の中には勝ちたい一心から練習が長くなり、ケガや体調不良が原因で競技から離れていくケースも後を絶たない。また、『ここで負けたら終わり』というトーナメント戦の弊害についても、欧米では子供の体を考えた規制がとても強く、リーグ戦で多くの子供が試合に出れるよう配慮されているが、日本はそうでない。試合に出ている子供は何試合も続くので体を壊し、出てない子供は応援しているだけで面白くない。いずれもせっかく始めた野球の楽しみをそぐことになっている。これも野球離れの原因のひとつ。私は野球だけでなくスポーツはまず楽しいことが大切だと思う」とコメントされている。

 実は、70年前は中学校の全国大会はなかった。校外での試合も宿泊禁止、高校でも地方大会が主で、全国大会は年1回程度にとどめる、という規制があった。しかし、1964年の東京オリンピック開催に向けて、規制が緩和され対外試合のタガが外された。結果として全国大会が大幅に増え、日本中の部活動が全国一を目指す現況となり、チャンピオンだけが賞賛される風潮が蔓延してきた。私は全ての子供にスポーツや文化活動に親しんで欲しいと思っている。だから、学校の部活動は、短時間でもよいから、スポーツや文化活動を経験できる時間と安全な活動場所を提供すればそれで十分だと考えている。もちろん、スポーツにおいて『勝つこと』を否定するつもりはないし、むしろ、スポーツを通して成就感を味わって欲しいと願っている。その成就感は全国大会でなくとも、授業の中での試合や球技大会、県大会など、ごく限られた範囲でも楽しみながら達成できるはずである。「それでは日本の競技力が低下する」という声もあるが、全国レベルのトップアスリートやプロを目指す場合には、欧米のように民間のクラブチームに所属する制度へ移行すれば全てが解決できる。今、国会で論議されている『働き方改革』も、部活動については小手先の改革ではなく、未来を担う子供を視点に置いた改革となることを期待する。

文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ 第159号

2017年12月26日

『型』        

学校長 荒木 孝洋

 

 柔道や剣道などのスポーツ、また芸術や芸能の世界で、手本となる体勢や動作のことを「型」と言う。今、世間を騒がせている相撲の貴乃花が部屋を立ち上げたとき、次のようなコメントをマスコミに寄せていた。「上手投げや下手投げは一見腕だけの力に見えるかもしれません。でも腕力だけでは投げられない。土俵で踏ん張る脚力、腰の粘りなど全身の力が大切なのです。筋力を鍛錬するウエイトトレーニングも必要ですが、土俵で相撲をとるためには長い歴史の中で培われた四股、スリ足、股割り、テッポウなどの基本を身につけなければなりません。上手投げも下手投げも基本がしっかりしていれば、どんな攻防も可能なのです。相撲に応用などいりません」と述べておられる。私は大の相撲ファンだからそのコメントがとても印象に残っている。貴乃花部屋では、基本の四股、スリ足、股割り、テッポウが終わると「これで稽古終わり」と師匠は稽古場を去り、力士たちはその後に申し合いや筋トレをするそうだ。力士の力は基本動作を見れば分かると言うことだろう。

 振り返ると、武道や芸能の世界に限らず、私達の日常生活における身近な所作にも「型」があるような気がする。例えば、約束した時間を守る、朝、家族に「おはよう」のあいさつをする、履き物を揃える、呼ばれたら「ハイ」と返事をするなど、いずれもこれらの所作を「型」として身につけ、日々実践することは大切なことだと思う。家族でも知り合いでも、何かのハズミで、顔も見たくない、口も聞きたくないと言うときがあります。その気持ちのまま朝、行き合ったならば、つっけんどんな態度になりお互いに不愉快になります。ところが、「おはよう」のあいさつを「型」として身につけていると、「顔も見たくない」という「我(が)」が、その「型」によって取り払われ、自然に「無我」の状態になれます。あいさつが調和を取り戻す一歩となり、あいさつをした人の心は、しないよりずっと穏やかであるはずです。「型どおり」と聞くと、変化や工夫がないように思えますが、そうばかりともいえません。「型」によって習慣化した振る舞いは、いざというとき、平常を取り戻す大事なツールとして活躍し、自己中心となりがちな心の在り方に警告を発する役割をしてくれるのです。

 一方、「型」の習得には指導者の役割も大きい。先日、甲子園の常連校の監督として大活躍されていたA先生と話をする機会があった。バッティングの話になった。「本校の選手を見ていると、期待した場面で肩に力が入りすぎて凡打になるケースが多い。力んでいるように見えるが、どうしたらいいでしょうか?」と質問すると、先生は、「力むなでは修正できない。力む理由は親指に力を入れてバットを握るからで、上腕筋に力が入り振りが縮こまってくる。だから、小指に力を入れてバットを握るよう指導するとよい。そうすると、下腕筋が働き、振りがスムーズになりムダな力が消えていく」と言われた。野球の練習で「素振り」は打撃の「型」を決める大切な練習のひとつだが、ただ振り回していたのでは「型」の習得にはにならない。指導者の責務も大きいと思った。

 三年生はいよいよ入試本番、センター試験まであと20日余り。この時期になると、点が伸びずに「力み」に似た症状になる生徒がいる。「力み」は「焦り」、難問に手を出して自信を失ったり、藁にもすがる思いで塾や家庭教師を頼って失敗するケースがそれだ。受験の仕上げは基礎・基本の繰り返し、「型」の確認が肝要。難問への挑戦はバットを親指で握っているようなもの、それでは真逆の対応。基礎基本は教科書にあり、脳の柔軟性を取り戻す作業はバットを小指で握るに似たり。

読書はしなくてはいけないものか?

2017年11月14日

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文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ

第158号

 

『読書はしなくてはいけないものか?』  

学校長 荒木 孝洋

 

 

最近、一日の読書時間が『0分』の大学生が5割に上る、という調査結果が報告された。さらに、全国学校図書館協議会による読書調査によると、本屋に行くと答えた割合が、12年前と比べて小中高のいずれも11〜8%減少しているそうだ。スマホの普及や街の書店が減ったこともその要因かもしれないが、若者の本離れが進んでいるようで心配になる。上記のタイトル「読書はしなくてはいけないものなのか?」というのは21才になる大学生の新聞投書(朝日新聞2017年3月8日掲載)である。大学生曰く「私は、高校の時まで読書は全くしなかった。それで困ったことはない。読書が生きる上での糧になると感じたことはない。読書はスポーツと同じように趣味の範囲であって、自分にとってはアルバイトや大学の勉強の方が必要。(中略)読書をしなければいけない確固たる理由があるならば教えて頂きたい」と。この投書は反響が大きかったのか、その後、その記事に対するさまざまな立場、年齢の読者からの意見や感想が掲載されていた。

 

 伊藤忠商事の社長であり中国大使も歴任された丹羽宇一郎は、件の大学生の意見に対して、著書『死ぬほど読書』の中でこう答えておられる。一部抜粋して紹介する。“もし、その大学生が直接、私にそんなことを聞きに来たら、こう答えると思います。「読む、読まないは君の自由だから、本なんて読まなくていいよ」。そもそも、誰がその大学生に本を読めと強制しているのでしょう。読まなくても本人の勝手です。読書をしない若者が増えたと嘆く大人の声など無視し、意義を感じるアルバイトや勉強に今日も明日も精を出せばいいのです。しかし、読書の楽しみを知っている人にはわかります。本を読むことがどれだけ多くのものを与えてくれるかを。考える力、想像する力、感じる力、無尽蔵の知識や知恵・・・、読書はその人の知的好奇心、そして「生きていく力」を培ってくれます。(中略)読書の必要性をどう考えようと自由です。しかし、必要ないと思う人は気づかないところで、とても大きなものを失っているかもしれません。政治にしても経済にしても文化にしても、そこに携わっている人たちの言葉が軽くなっている。じっくりと洞察し、深く考えたところから発した言葉に触れる機会が、以前よりぐんと減っている感じがします。このことは現代人の読書時間が極端に減っていることと、決して無関係ではないと思います。(中略)『何でもあり』の世界は一見自由なようですが、自分の軸がなければ、実はとても不自由です。それは前へ進むための羅針盤や地図がないのと同じです。 では、自分の軸を持つにはどうすればいいのか?。それには本当の『知』を鍛えることしかありません。読書はそんな力を、この上もなくもたらしてくれるはずです。読書はあなたをまがいものでない、真に自由な世界へと導いてくれるものなのです”と。

 

 人の一日は24時間。従って、新しいモノが登場したり新しいことを始めると、従来使っていた時間から何かを削らなくてはならない。特に、ケータイやネットの登場で使う時間も情報発信のスタイルも一新し、新たな時間配分のステージへ向かうことになった。朝から深夜まで絶えず誰かと会話をしたり、携帯やメールチェックと返信で落ち着かない若者が増えたと言うが、24時間から何を削っているのだろうか?。人や書物と対面しながら『心の習慣』を身につける大切な時間が削除されているような気がしてならない。若くて無限の可能性を秘めている若者だが、学び身につけなければならないことがまだまだ沢山ある。その手立てのひとつが読書だ。読書は趣味のひとつではない。自分が経験できないようなことを、読書を通して体験する。それによっていろいろな人の立場に立ってものごとを見たり、考えたりできる。そうすることによって自分の視野や思考の範囲がぐんと広がり、想像力が鍛えらる。想像力はとても大事だ。本を読んでさまざまな生き方や思考を体験できれば、想像力はどこまでも伸び、世界がそれだけ広がる。しかも、人には寿命があり、その中でできることは限られている。経験できないこともたくさんある。それを埋め合わせたり、人生を豊かにしてくれるのも読書の妙味だ。 

 

縁を生かす

2017年10月10日

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文徳中学・高等学校のことをもっと知りたいと思っている小学生・中学生とその保護者の方々へ

第157号

 

『縁を生かす』

学校長 荒木 孝洋

 

 稲穂が色づき実りの秋を実感する季節になった。子供のころを思い出す。今はほとんど見かけることがなくなったが、どこの田んぼにも人の姿を模造した案山子が立てられていた。布ぎれに顔を描きそれを棒に巻き付けただけの人形、子どもたちはそのユーモラスな形相に笑いこけた。案山子は稲刈りが終わると役割終了、しかし、その後も田圃の隅っこにポツンと立てられたまま。雪が降れば白装束になり、冬になると北風に震えるようにして忽然と立ったままである。その姿が不憫に見えたことを想い出す。可哀想だと思うのはその姿に自分の姿や境遇が重なるからかもしれない。

 ところで、本棚を整理していたら、京セラの稲森和夫会長が書かれた「ちょっと元気の出る話」という本を見つけた。ひとりの少年の成長を記した「縁を生かす」というタイトル、教師の資質が問われているようでドキッとした。原文のまま紹介する。

 “その先生が5年生の担任となった時、一人、服装が不潔でだらしなく、どうしても好きになれない少年がいた。中間記録には先生は少年の悪いところばかり記入するようになっていた。ある時、少年の1年生からの記録が目にとまった。「朗らかで、友達が好きで、人にも親切。勉強もよくでき、将来が楽しみ」とある。間違いだ。他の子の記録に違いない。先生はそう思った。2年生になると、「母親が病気で世話をしなければならず、時々遅刻する」と書かれていた。3年生では「母親の病気が悪くなり、疲れていて、教室で居眠りする」後半の記録には「母親が死亡。希望を失い、悲しんでいる」とあり、4年生になると「父は生きる意欲を失い、アルコール依存症となり、子供に暴力をふるう」先生は胸に激しい痛みが走った。ダメだと決めつけていた子が突然、深い悲しみを生き抜いている生身の人間として自分の前に立ち現れたのだ。先生にとって目を開かれた瞬間であった。放課後、先生は少年に声をかけた。「先生は夕方まで教室で仕事をするから、あなたも勉強していかない?分からないところは教えてあげるから」と、少年は初めて笑顔を見せた。それから毎日、少年は教室の自分の机で予習復習を熱心に続けた。授業で少年が初めて手を上げた時、先生は大きな歓びがわき起こった。少年は自信を持ち始めていた。クリスマスの午後だった。少年が小さな包みを先生の胸に押しつけてきた。あとで開けてみると、香水の瓶だった。亡くなったお母さんが使っていたものに違いない。先生はその一滴をつけ、夕暮に少年の家を訪れた。雑然とした部屋で独り本を読んでいた少年は、気がつくと飛んできて、先生の胸に顔を埋めて叫んだ。「ああ、お母さんの匂い!きょうは素敵なクリスマスだ」6年生では少年の担任ではなくなった。卒業の時、先生に少年から一枚のカードが届いた。「先生は僕のお母さんのようです。そして、今まで出会った中で一番素晴らしい先生でした」それから6年、またカードが届いた。「明日は高校の卒業式です。僕は5年生で先生に担任してもらって、とても幸せでした。おかげで奨学金をもらって医学部に進学することができます」10年を経て、またカードがきた。そこには先生と出会えたことへの感謝と父親に叩かれた経験があるから患者の痛みが分かる医者になると記され、こう締めくくられていた。「僕はよく5年生の時の先生を思い出します。あのままだめになってしまう僕を救ってくださった先生を、神様のように感じます。大人になり、医者になった僕にとって最高の先生は、5年生のとき担任をしてくださった先生です」そして一年、届いたカードは結婚式の招待状だった。「母の席に座ってください」と一行、書き添えられていた。”(おわり)

 たった一年間の担任の先生との縁。その縁に少年は無限の光を見いだし、それをよりどころとして、それからの人生を生きた。ここに少年の素晴らしさがある。人は誰でも縁の中に生きている。無数の縁に育まれ、人はその人生を開花させていく。大事なのはその縁をどう生かすかである。と同時に、教師は子供の心の動きを感じるアンテナの高さが問われる。立ってるだけの教師は案山子と同じ。

(教師生活50年の述懐)